伝道者の書(コヘレトの言葉)1:12 新共同訳
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。
(同:新改訳2017)
伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
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「伝道者の書:新改訳」=「コヘレトの言葉:新共同訳」
の著者は、「ソロモン王様」だと思っていたが、
どうやら 諸説あるらしい、というのは 驚きで、
全然知りませんでした。
以下、抜粋引用致しまして、
今後参考とさせて頂いて読んでいくこととしました。
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※(「聖書ガイド」聖書新共同訳 準拠 :日本聖書教会編:P56より)
著者は自分がダビデの子孫であり、エルサレムの王であると言う
(1:1)。
コヘレトの言葉にはソロモンへの言及はないが、ダビデの子孫で
エルサレムの王となれば筆頭にあげられるのはやはりソロモンで
ある (Ⅰ列王1章)。また、ソロモンの知恵はよく知られており、多く
の格言や歌を生み出したとされている(Ⅰ列王3:5-1、5:9-14、箴1:1)。
しかし、ソロモンのような重要人物の「権威を借りて」文書を書くこ
とは 古代では珍しいことではなかった。今日、多くの学者はコヘレト
の言葉の著者をソロモンであるとは考えていない。
理由の一つはこの書の言語である。
本書で使われているヘブライ語はソロモン時代(B.C.970年から931年頃)
より何世紀も後の時代のヘブライ語と考えられている。また、文中に
ペルシア語が含まれていることも、捕囚以降の時代に書かれたこと
を示している。捕囚から解放されてからおよそ200年にわたって、
ユダヤ人はペルシアの言語と文化から多大な影響を受けていた。
また、ソロモンが直接書いたものではないとするもう一つの理由は、
随所に著者が王ではなく、臣下であることが読み取れるからである
(5:7,-8、8:2-5、10:5-7、16:17-20)。
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※(「新聖書辞典:いのちのことば社」P974より)
しかし、
G・アーチャーは 言語学全般(用語、語法、構文学)を検討すると、
本書が既知のヘブル語歴史のいかなる時代にも対応しないと結論
する。 ヘレニズム時代 (中間時代)はもちろん、捕囚帰還後、捕囚期、
それ以前のどの時代も本書の言語的特色に適合するものはなない
ということは、本書の年代決定を言語に基づいて行うのは (資料が
不十分であること、方法が多様であって必ずしも学者の意見が一致
していないことなどを含めて) 確実とは言いがたい。
なお、G・アーチャーは本書の言語、文学的特異性は現存するヘブル
文学には本書と同じ類型に属するものがないからと推定する。
本書の著者が自らを「コーヘレス」と名乗って本名を明かさなかった
理由は種々考えられるが、少なくとも1-2章の記述はソロモンを推測
させるものであり、ソロモンが著者でなければならないとは断定でき
ないとしても、反対に、ソロモンが著者であってはならない強固な理由
もないということになろう。
(「同」P973より)
ダビデの子で、エルサレムでイスラエルの王であり (1:1、12)、
知恵 (1:16)、富 、事業 (2:4-10) において比類のない者といえば
ソロモンを指す以外にはないことも事実である。
したがって、彼の名が記されていなくとも、内容からソロモンを示して
いると考えるのは自然である。
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私も 愛用しております、
「デボーショナル聖書注解:いのちのことば社」さんも
「p592」にて、「記者:ソロモン」と記しております。
記述年代は「おそらくソロモンの生涯の後のほう、
前935年頃」とあります。
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やはり、
「伝道者の書」の著者は、「ソロモン」王様 だと 認識して
この書を読みすすめるのが一番自然に思われます。
「虚無」の深みで悩まれたこの「王様」は、
繁栄の極みを経験された 「ソロモン王様」に違いありません。
彼の一番の失策は、異教徒の妻やそばめたちの習慣への鈍化と
思われてしかたありません。近隣諸国との緊張関係の緩和に
もっと別の策を用いることはできなかったのでしょうか。
「ソロモン」王様の 後の信仰的堕落を知りますと、驚きと失望です。
かの「箴言」につらつら書かれたる格言も 時にふがいなく響いて
しまうような感さえ致しますが、それはそれとして
なんといっても「聖書」でありますから、謙虚な気持ちを失わないよう
それらの御言葉に向きあいたく思います。
そのような「箴言」を書かれた「王様」ですら、
油断のうちに「罠」にはまってしまうのですから、
信仰生涯の闘いに終わりはないことがわかります。
最後の息の一呼吸まで 純粋に無垢で正直な信心を
保つことができましたら、幸い、と そのように思われます。
尊き主イエスの御名に栄光あれ!
ハレルヤ!