エペソ1:22-23・・・「教会」の頭、そして体 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

エフェソ1:22,23 (新共同訳)

神はまた、

すべてのものをキリストの足もとに従わせ、

キリストをすべてのものの上にあるとして

教会にお与えになりました

 

教会はキリストの体であり、

すべてにおいて

すべてを満たしている方の

満ちておられる場です。

 

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(デボーショナル聖書注解より)

キリストは教会を賜物と祝福で満たす

教会はキリストの満ち満ちた現れであるべきであり、

キリストご自身がいっさいのものを満たす(3:19)。

エペソ人への手紙を読むとき、これが主として

教会全体に対して書かれたのであって、

単に個人に対してではないことを覚えていることが重要だ。

 

キリストは かしら であり、

私たちはキリストの教会のからだである

(エペソ人への手紙の至る所、またローマ12:4,5.Ⅰコリント12:12-27、

コロサイ3:15でも、パウロはこの隠喩を用いている)

 

からだという概念は、教会の一致を示している

 

教会員はおのおの、

絶えずこの世でキリストの働きをしながら、

他の人すべてと関わりを持っている。

ひとりで働き、仕え、礼拝しようとするべきではない。

私たちには からだ全体が 必要なのである。

 

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(新聖書辞典より)

新約聖書で「ギ:エクレーシア」の訳語として

100回以上用いられている。(略)

 

使徒を代表したペテロが

イエスを神の子キリストであると告白した時、

主イエスは彼に

あなたはペテロです。

この岩に上にわたしの教会を建てます

と言われた(マタ16:18)。

 

イエスをキリストと告白する使徒たちの教えを基礎として、

キリストの教会は建てられる

 

パウロの表現に従えば、

ご自身の血をもって買い取られた神の教会(使徒20:28)

すなわち御子の血によって贖い出された、

新しい契約の民こそ

神に召し集められた集団、エクレシアである

 

この神の民は

創造の前から父なる神が愛する御子によって

キリストのうちに選ばれたことに従い、

思慮深い知恵による御計画と、

その計画をすべて実現される御力によって、

歴史の中で進展的に啓示され、実行され、

キリストにおいて一つに集められた、

ユダヤ人も異邦人も共に含む

御国を受け継ぐ者たち

神に大胆に近づく集団

それが教会である

(エペソ1:4-14、3:3-12)

 

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キリストは教会の頭であり、わたしたちはその体。

 

よく、「キリストの体なる教会」とも言われる。

頭と体がバラバラでは、成り立たない。

 

イエスをキリストと告白する、

使徒たちの教えを土台として建つ「教会」。

御国を受け継ぐ者たち、神に大胆に近づく集団。

新しい契約の民、神に召し集められた集団。

群れ。

 

イエス様は、この、主の体なる「教会」を愛していらっしゃる。

この、「教会」を通して イエス様の御計画が進んでいる。

 

ペンテコステの日の「教会」誕生以来、

「教会」史とイスラエル史が語る預言の確かさ。

 

主がお建てにになった「教会」の完成は、何時だろう。

それとも、完全な「教会」はすでに完成されていて、

見えないだけなのだろうか・・・。

今、まさに、再臨に備えられている状態なのだろうか。

「神の家」から裁きが始まるのだとすれば・・・。

 

主イエス・キリストの御名を崇めて感謝いたします。

ハレルヤ