十戒(1)第1と第2のことば・・・出エジプト20章(10のことば) | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

出エジプト記20章1~6節 (新改訳2017)

それから神は次のすべてのことばを告げられた。

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した

あなたの神、主である。

 

あなたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない

あなたは 自分のために偶像を造ってはならない

 

上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、

地の下の水の中にあるものでも、いかなる形を造ってはならない。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。

わたしを憎む者に 父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、

恵みを千代にまで施すからである。

 

(アァメン)

 

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(デボーショナル聖書注解1~6節解説引用します)

 

神の新しい国のために、なぜ10のことば(十戒)が必要だったのか。

 

シナイ山のふもとで、神は御自分の民に

神の律法の持つ 真理の働きと美しさ を表された。

 

その戒めは イスラエルを実践的な聖なる人生へと導くべく

制定された。

 

律法において、人は神の性質を見ることができ

どのように生きるべきか

ということに関する神の計画を知ることができた

 

その命令と細則は、神の共同体が愛と責任をもって

個々人の必要にこたえる方法を示している。

しかし、イエスの時代まで、ほとんどの人は、

律法を間違った仕方で見るようになってしまった。

 

彼らは、神の律法とは、

この世や次の世で繁栄するためのものだと考えた。

そして、すべての律法に従うことで神の守りを獲得することができ、

他国からの侵入や災害から守られる、と考えるようになった。

 

律法を守ること自体が目的となり、

神の究極の愛の律法を守る手段としての意味 が

忘れられてしまった。

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(20:1~6解説)

イスラエル人は、偶像があふれ、多くの神々のいる地であるエジプトか

ら出てきたばかりだった。エジプトでは 生活のさまざまな領域にそれぞ

れ神々が存在したので、できるだけ多くの祝福を得るために多くの

神々を礼拝することが普通だった。

 

神が民に、神を礼拝し信じるように伝えたとき、人々にとって、それは

難しいことではなかった。もう1人の神をリストに加えればよいだけのこ

とだからである。しかし、神が次のように言われたときは、違っていた。

 

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」

 

これは、人々にとって受け入れにくいことだった。

 

もし民が、エジプトから彼らを導き出した神が

唯一の真実の神であることを学んでいなければ、

どれだけ忠実に残りの9の戒めを守ったとしても、

神の民になることはできない。

 

かくして、神は この最初の戒めを定められたのだ

 

現代の私たちは、お金、名声、仕事など、さまざまなものに神々となる

ことを許している。神が人生の中心にあるようにし、神々に目を向ける

ことがないようにしよう。

 

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(新聖書辞典P989より)

さて、第1のことばは、

主なる神のほかに、ほかの神は一つとしてイスラエル人にはあっては

ならない、ということである。主なる神とイスラエル人との間には、ほか

のいかなるものも入ることのできない、密接な、排他的な関係が結ば

れているのである。

 

第2のことば。

礼拝の対象としての像を造ることの禁止である。

それは、目に見えない主なる神を具体的な形で現すことも含めて、

いっさいの被造物を礼拝の対象とすることを禁じる

創造主は、被造物の中に制限されることはないのである。

礼拝の対象外の宗教的芸術は、後のイスラエルの歴史において

認められる。(Ⅰ列6:23-29、7:25、29等)

この命令を守る者には、契約の恵みが、永遠に続く。(申7:9)

 

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十のことばは、契約の具体的な規定が与えられるための序文であり、

導入の働きをしていると共に、神の民としての特別な身分に入るため

の条件を明示するものとして、契約の本質でもある。

 

選びの民としてのイスラエルは、主である神に対していかにあるべき

か、神の民としてのイスラエルは、同胞に対し、人類に対し、どうある

べきかという基本原理が神から提示され、宣言される。

十のことばは、神との契約の根底にある基本的原理であり、

祭儀的な規定が積極的に表現されていないからと言って、

それを否定しているわけではない。

全包括的見出し、というよりは、一般的、普遍的、要約的見出しの部分

であると言うことができる。

 

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あらためて、思いました。

 

数千年も昔、

神の人類大救済計画の中で、選ばれたイスラエル民族。

ユダヤの民に負わされた責務のなんと尊く、重いことだろうと。

彼らの、全人類に対して果たすべき「役割」を思う。アブラハムの民。

アブラハムに約束された「祝福」に、われらも共に与かることができる。

ただ一人の人、

「アブラハム」の信仰のゆえにもたらされた「神の祝福と約束」。

「モーセ」によって与えられた「律法」の役割。

 

過酷なイスラエル人の歴史。

しかしながら、人類の歴史は、その「過酷」さの中を浮き沈み、

ある民族は消滅し、国々の名も消えていく。

されど、イスラエル民族は生き残り続け、その国の名もまた興される。

 

神から選ばれた者の、”永遠に生きる”とは、

現実に繰り広げられている「イスラエルの民」を見ても 明らか。

 

2000年前に、

イエス様がなさった「業」を信じる我らに与えられている「約束」。

神との平和を得、神が最初に与えてくださっていたその「祝福」の道を

歩むことができる者とされていますから、感謝です。

主イエス・キリストの御名を崇め讃美致します。アァメン ハレルヤ