『進撃の巨人』アニメ最終回を観た。もちろんリアタイ視聴である。寝かしつけの時間を計算し、赤子が放送時間に起きてこないよう調整した。一人テレビの前で30分待機し、ついに始まりそして終わった。10年以上追ってきたコンテンツがとうとう終わりを迎えたのである。 

 この間、私は学生から社会人になり、進撃の巨人展に行き、さらに進撃の巨人展に行き、結婚し、日田の銅像クラファンに参加し、またも進撃の巨人展に行き、もう一度進撃の巨人展に行き、銅像を見に行き、その上また進撃の巨人展に行き、子供まで生まれた。生活環境は目まぐるしく変化したが私は進撃の巨人に出会ったあの頃と何も変わっていない。そう、私は猛烈な「カプ厨」なのである。そして進撃の巨人は、まことにカプ厨に厳しい作品であった。キャラクターが次々死ぬからである。毎クール(このキャラこれから死ぬんだよな……)と思いながらオープニングを見ていた記憶がある。推しカプ表明は慎重にせねば争いの元なので私の推しカプは伏せるが、いくつかあった推しカプは全て死別し、色々あって私の脳は破壊され尽くしていた。それでもアニメ最終回をリアタイ視聴した。それはなぜか。アニオリで「実は死んでない」とか「実はそうじゃない」とかがあることに賭けたのである。放送前に原作者・諫山創が出したコメントでラストが漫画とは少し違うことは確定していた。これはワンチャンある!私は賭け、そして賭けに負けた。故に脳は破壊されたままなのだが、それでも観て良かった。進撃の巨人は私の青春そのものだ。

 進撃の巨人は主人公エレン・イェーガーが命の炎を爆速で燃やし尽くす物語だ。ろうそくの炎は消える前が一番明るいと言われるが、それと同じように最終回のエレン・イェーガーはその命を激しく燃やし、燃え尽きた。最終回は冒頭から世界中の人類を踏み潰している最中というあまりにシビアな状況であったため、視聴開始15分で私はCMを所望した。私の心はあの頃の猛烈カプ厨のままだが、体力は確実に衰えており、CMが無いと深刻なダメージを負った肉体の回復が追いつかない。しかし、進撃の巨人はまさかの国営放送になってしまったためCMなどという甘えは許されなかった。私は目から血を吹き出しながら見続けたのである。

 エレンはその命を燃やしながらも巨人の力のせいで現在過去未来の概念がぶっ壊れている上に「道」なるツールを手に入れていたため、その生はある意味では一瞬であり、そして永遠であった。「道」で過去をウロウロしていたことも含め、まるでポルノグラフィティの「愛が呼ぶほうへ」みたいな人生だと言える。その永遠とも言える時の中で仲間と対話をしていたことが最後に明かされるのだが、その対話内容が原作者による新ネーム箇所だったと思われる。もともと漫画でセリフに賛否両論あった(私調べ)箇所であり、漫画のニュアンスを消さないままうまい具合に解釈の幅だけ狭めた、という変更だったと思う。エレンと親友のアルミンがともに地獄に落ちようぞ、と抱擁を交わす様は激アツだった。

 そして最終回の見所の一つだったのがスイスの山小屋である。キービジュアルで事前にカラー画像が公開されていたスイスの山小屋だが、動画で観るとより一層美しかった、のだと思う。しかし私はこの先に待つ別れをすでに知っているため、とても尋常な気持ちでは見ることができず、テレビの真正面にいながら何となく目をそらしていた。なぜ、こんな悲しいことになってしまったのか……。ミカサはエレンの首を落とさねばならず、アルミンはエレンを殺害した者として生きねばならず、エレン自身は自分のやらかしのせいで仲間を殺し泣くこともできず(ネーム段階ではサシャが死んだときエレンは泣いていたのだが)。人は皆、心に傷を負ったまま、そして他人を傷付けながら生きねばならぬのか。なんと人類の愚かなことよ。

 このような悲しみの嵐に見舞われ、原作が終了して2年半経った今も私の脳は破壊されたままなのである。グダグダ書き続けていると推しカプがバレそうなのでこの辺でやめるが、ただただ私はエレンには生き残ってほしかったのだ。そしてアニオリでエレンが生き残ったということは無かった。