今、世界中には、
さまざまな自己啓発法・成功法則が氾濫しておりますが、
西洋発のそういった類のものは、
実は決してうまくいかないわけです。
というのは、自然を法則を、最終的に無視しているからです。
自然、
というと、
さも「やさしいもの」であるとか、
「うまくいくもの」であるとか、
「生命を育むもの」であるとか、
ついついそう思いがちなわけで、
西洋における「神」についてもそうなんですが、
自然にしても、
神にしても、
つねに「優しい」と同時に「冷酷」でもある、
という側面は忘れてはいけないんですね。
生きているものは全て死にますし、
カタチあるものはすべて必ずチリと化します。
しかし、
西洋的、
まあ、最近は日本の方でもほとんどがそうですが、
そういった部分を踏まえていない。
なんとかいじくって人間の理想に合うように応用しよう
これが発想のもとなわけです。
自然において、
神において、
ダメなものダメ
こういう発想、
なんというかな、
根本的なパラダイムが相変わらず変わっていないので、
ゼッタイに思った通りにはいかん、
とそういうわけです。
正直に、
「これをやったら他の人よりも成功できる、かもしれない確率、が上がります」
というならいいんですけどね、
当たり前ですが、
私たちは「他のなにかより上手にする」ということはできます。
これは自然の中にあって当たり前で、
上手にできるものが、
生き残る、というわけです。
ただまあ、宇宙というのは広大ですから、
なにか1つできたことが、
本当に「生き残る」という目的に合致しているかは分からないのですけどね。
日本では「負けるが勝ち」という言葉もあり、
短い時間のスパン、また微視的には「負けた」と感じることがあったとしても、
もっと長い時間、巨視的には「勝っている」ということもあるわけです。
西洋的な方法論には、
これがない。
だから、
もちろん必ず数%はうまくいく人が出る(これは自然発生的に出る)
と同時に、
ほとんどの人はうまくいかないんですね。
また、うまくいった人も、
次の瞬間には、
別の問題に悩まされるもんなのです。
東洋の、
というか
古い中国や、日本の伝統的な発想では、
そうではないんですよね。
負ける、折れる、失敗する、はゆるがない自然の常です。
だから、
それとどうつきあっていくか、
自分たちをどう変えていくか、
という発想なのです。
だから「無我」という方向にいかざるを得ない。
または「無我」とはいわないまでも、
自由闊達な自己、
とどまらない自己、
川に浮かんだ小舟のように、流れに従ってクルクルと方向を変える自己、
そんなものを目指すわけです。
西洋の成功法則や自己啓発は、
そんな自己の上ではじめて、(あくまで一時的な)理想を築くために、成果を生むものなんですね。
ひょっとしたら、これは日本の地盤なんかに関係しているのかもしれません。
日本の大地は、
地震のよく起こる大地で、
いってしまえば、ぐずぐずの「動く大地」なんですよね。
西洋的には「大地」といえば「ゆるぎない」という印象であるのと、
よく考えると大きく違います。
ゆるぎないならば、そこに固い建物を建てれば崩れません。
しかし、日本では、どんなに固い建物をたてても、
大きな地震がくれば一発、
カンタンに崩壊してしまいます。
つまり、人間がどんなにがんばっても、
まず「必ず動く大地」がある。
だから、身近に常に変化し、破壊をもたらす「自然の力」を感じていたのかもしれません。
私たちは、つねに「死」に向き合っていかなければならない。
自分だけでなく、
家族や友人の「死」ともつきあって生きなければなりません。
そして、「病気」「老い」ですよね。
それは、私たちにとっては「失敗」「挫折」なのかもしれません。
でも、それが私たちが生まれている自然の姿なのです。
なので、
失敗、挫折、崩壊、苦しみ、病気、死、別れがありき・・・
でなければ、およそ意味がない、といえるでしょう。
さまざまな自己啓発法・成功法則が氾濫しておりますが、
西洋発のそういった類のものは、
実は決してうまくいかないわけです。
というのは、自然を法則を、最終的に無視しているからです。
自然、
というと、
さも「やさしいもの」であるとか、
「うまくいくもの」であるとか、
「生命を育むもの」であるとか、
ついついそう思いがちなわけで、
西洋における「神」についてもそうなんですが、
自然にしても、
神にしても、
つねに「優しい」と同時に「冷酷」でもある、
という側面は忘れてはいけないんですね。
生きているものは全て死にますし、
カタチあるものはすべて必ずチリと化します。
しかし、
西洋的、
まあ、最近は日本の方でもほとんどがそうですが、
そういった部分を踏まえていない。
なんとかいじくって人間の理想に合うように応用しよう
これが発想のもとなわけです。
自然において、
神において、
ダメなものダメ
こういう発想、
なんというかな、
根本的なパラダイムが相変わらず変わっていないので、
ゼッタイに思った通りにはいかん、
とそういうわけです。
正直に、
「これをやったら他の人よりも成功できる、かもしれない確率、が上がります」
というならいいんですけどね、
当たり前ですが、
私たちは「他のなにかより上手にする」ということはできます。
これは自然の中にあって当たり前で、
上手にできるものが、
生き残る、というわけです。
ただまあ、宇宙というのは広大ですから、
なにか1つできたことが、
本当に「生き残る」という目的に合致しているかは分からないのですけどね。
日本では「負けるが勝ち」という言葉もあり、
短い時間のスパン、また微視的には「負けた」と感じることがあったとしても、
もっと長い時間、巨視的には「勝っている」ということもあるわけです。
西洋的な方法論には、
これがない。
だから、
もちろん必ず数%はうまくいく人が出る(これは自然発生的に出る)
と同時に、
ほとんどの人はうまくいかないんですね。
また、うまくいった人も、
次の瞬間には、
別の問題に悩まされるもんなのです。
東洋の、
というか
古い中国や、日本の伝統的な発想では、
そうではないんですよね。
負ける、折れる、失敗する、はゆるがない自然の常です。
だから、
それとどうつきあっていくか、
自分たちをどう変えていくか、
という発想なのです。
だから「無我」という方向にいかざるを得ない。
または「無我」とはいわないまでも、
自由闊達な自己、
とどまらない自己、
川に浮かんだ小舟のように、流れに従ってクルクルと方向を変える自己、
そんなものを目指すわけです。
西洋の成功法則や自己啓発は、
そんな自己の上ではじめて、(あくまで一時的な)理想を築くために、成果を生むものなんですね。
ひょっとしたら、これは日本の地盤なんかに関係しているのかもしれません。
日本の大地は、
地震のよく起こる大地で、
いってしまえば、ぐずぐずの「動く大地」なんですよね。
西洋的には「大地」といえば「ゆるぎない」という印象であるのと、
よく考えると大きく違います。
ゆるぎないならば、そこに固い建物を建てれば崩れません。
しかし、日本では、どんなに固い建物をたてても、
大きな地震がくれば一発、
カンタンに崩壊してしまいます。
つまり、人間がどんなにがんばっても、
まず「必ず動く大地」がある。
だから、身近に常に変化し、破壊をもたらす「自然の力」を感じていたのかもしれません。
私たちは、つねに「死」に向き合っていかなければならない。
自分だけでなく、
家族や友人の「死」ともつきあって生きなければなりません。
そして、「病気」「老い」ですよね。
それは、私たちにとっては「失敗」「挫折」なのかもしれません。
でも、それが私たちが生まれている自然の姿なのです。
なので、
失敗、挫折、崩壊、苦しみ、病気、死、別れがありき・・・
でなければ、およそ意味がない、といえるでしょう。