僕は、子どものいる空間にいることが多い。

「最近の子どもは落ち着かない。」

「まとまりがない。」

と言われるが、

僕が子どものいる空間にいて気づいたこと。




それは、

「子どもが問題」なのではない、

ということだった。





正直、僕も娘が生まれて、

今みたいに週に3日は子どもばっかりの空間にいることがなければ、

「テレビのせいで・・・」

とか

「欧米文化の影響で・・・」

とか思っていた。




でも、

実際に子どものいる空間に身をおいて、

よ~~く子どもの行動を見ていると、

わかってくることがあったんですね。




それは、

子どもがそうあるべきようにあることができる「場」がない、

ということなんです。




「場」といっても、

これは非常に複雑なものなので分かりにくいのですが、

あえていえば「空気」と考えてください。




子どもが今のように振舞っているのは、

それを容認する「場(空気)」があり、

また、

「ある規律」に従って振る舞える「場(空気)」がない、

ためだとおもいます。




子どもは、大人や周りをよく見ている。

「あ、これはこうこうこうしていいな。」

そう思う。

だから今のように振る舞うんです。




叱ればしないか、

そういうことでもない。




人間って、いくつかの小さな断片によって行動するわけではない。

もっともっと小さな断片の、その積み重なりによって行動するのです。




今、日本にはあるのは、

「本当に守らせるべきルールがなにか分からない。」

「誰も責任をとりたくない。」

そういう「場」、空気なんです。




子どもはそれを感じ取る。

従うべきものがない。

従うべきものがない人間は、

大人であれ、野生動物のように振る舞います。

そう、1つの生物として、本能のままに。




もちろん「場」に対応するのも本能なので、

日本の場がそれを容認するものではなくなれば、

彼らはそういう行動をしなくなるでしょう。




でも、問題は大人なんです。

子どものうちは、「場」に対するただの「反応」でしかない。

しかしそれは、

いつしか「習慣」になる。

「習慣」になるとなかなか取り除けない。




子どもはいつも、やっぱり問題を抱えていない。

問題を抱えているのは大人であり、

子どもはその問題を、私たちの目の前に突きつけるだけに過ぎない。

私たち大人のあり方の「投影」として。




私たちは、子どもの心配をする必要は、あまりないのかもしれない。

自分たちのある程度の人数が変わり、

「場」を変えていくなら、

子どもたちは自然と変わっていくでしょう。




私たちは、本当に自分たちが「信じるべきルール」を再発見しなければならない。

そして、自分が信じる道を、自分が責任をもって世の中に表現するのだ。