僕は世界中の様々な自己啓発から、集団を扱う方法などを、

最新のものから古代のものまで勉強してきてが、

最近よく思うことは、

結局見る視点、望む視点によって取るべき方法は違う、ということだ。



たとえば、個人の幸せを追求すると、どうしても社会、というか他人には歪みが出てくる。

「成功」という「価値」は、結局「差異」から生まれるわけだから、

カンタンにいうと「失敗」がないと「成功」は生まれないから、どうしてもそこに「失敗者」を生み出してしまう。

だから、個人の幸せを追求するときは、どうしても他人のことを考慮すると何もできなくなってしまう。



じゃあ、社会全体が幸せになることを望むとする。

すると、どうしても「個人」にその影響は来る。

大きな社会を安定させるためには、その「要素」である個人は、切捨てられる。

カンタンにいうと、社会が安定しているためには、いつも「動き」が必要だけど、

「動く」ということは、幸せな人が不幸せに、成功している人が失敗した人になる、ということを意味する。

もちろんうまく波に乗れる人はいるが、基本的にはそうではない。

でも、そういう「揺らぎ」をつくっておくことが長期的な社会の安定となったりする。



たとえば古い日本は、「社会」の安定を図ってきた。

だから、個人は土地や階級に縛り付けられたリしていた。

ただ、当時の人は、どうもそれが良く分かっていたから、今の人たちよりはるかに幸せだったようだ。

「分」をわきまえる、というのか、無理して出世を望んだり、裕福さを望んだりはしていないようだ。

時代劇などでは、ドラマチックにするために、「悪い人」がいたり」「夢」があったりなどと描かれているが、

事実はそうでなかったみたいだ。

そうして、多くの人が幸せに生きていた。

社会としては、非常に安定していた。



今、西洋でも「個人主義」が限界に達してきており、

これから昔の日本のような「全体」つまりより「社会」で幸せを考えるようになってくると思われる。

そのときに選ばれてくるのは、一見「個人」的な視点からみると残酷なようにみえる東洋の知恵だ。



太古の兵法書、というか、統治者のための書といえる「六韜」などでは、そのことがはっきりと見える。

民草を大事にしつつ、所詮民草はおろかであるから○○○すれば操れる、といったこと。

なるほど、そういうことだったんだな。



自分が、どのポジションで、どのような視点で、どれくらいのタイムスケールで見るかで、「何が良いのか?」はすっかり変わってくるのですね。

課題が山積みです。



クリックよろしくね★
↓↓
人気ブログランキングへ