「日本人が想定外の問題に対応できない本当の理由」を読んで思うこと。 | さるうさぎのブログ

さるうさぎのブログ

原発・放射能はもとより、環境に悪いものから子供たちを守るには・・・?!

読んで、「まったくそのとおり」と何度も共感し、みなさまにも広めたいと思った記事があります。
日本人が想定外の問題に対応できない本当の理由
消えちゃうともったいないなあ~と思ったので、↑に貼り付けておきました。

青太字は、さるうさぎが共感したところです。

想定外。この言葉、2011年3月から半年くらい、しょっちゅう見聞きましたね。
あまりに目に付いたから、想定外=責任逃れの言い訳、と、自然に脳内翻訳するくらいに。
問題が発生して、出てくる責任者の台詞が「想定外」。
あまりにも原発を完全無欠なものと考えていたんだろうな~。
それはそれで、失敗したわけで、国民がおこっているのはそこじゃない。

問題があって、解決策があって、それが実行されない。
それを「おかしい」と思っても、改善できる風土がない。

だって、上に対して「おかしい」と口に出すのは、減点対象となるから。
上も「おかしい」と思ってくれなかったら、バカな上は「あんたがおかしい」と、その権力をもって自分を追い落とそうとする。
それでなくても、大人になるまでみっちり学校教育で「社会に従う素直ないい子」であるよう洗脳されちゃっているから、その呪縛から逃れるのは至難のワザ。

今思い出したことがある。
昔から「おかしい」こどもだったさるうさぎは、高校生の時友人とふたりで、「なぜ修学旅行は広島、と押し付けるのか。
広島のことは小中学校といろいろ聞かされている。なぜ他の場所ではいけないのか。」と抗議に行ったことがあった。修学旅行担当の国語の先生はいじわるな人ではなかった。彼なりに考えて、「広島のことについて聞くのと、実際に行ってみるのとは違う。体験者の話も聞けるし、行く価値は十分にある」と、理由を説明してくれた。
若かったさるうさぎは、釈然としないまま、そのつぎの台詞が出てこなかったから、結局その話はそれでおしまいになって、みんなと修学旅行で広島に行った。
今なら、まだつっこめるな。
戦争被害者意識の象徴ばかりを強調する日本の歴史教育についてとか、
広島には行くけど、水俣にはなぜ行かないのか、とか(注:MINAMATAと外国でも知られています)
百歩譲って、原爆被災地に行くとして、なぜ長崎ではないのか、とか。
もしあの時の先生がいじわるな人で、内申書を書く担任の先生だったとしたら、さるうさぎは被害をこうむっていたかもしれないな。

話を元に戻すと、「おかしい」と申し立てる事で、学校なら成績、社会なら出世や給料や社会的評価にその結果が跳ね返ってくるわけで、だから「おかしい」と言うことは、ある程度自分の犠牲を払ってでも言う、という覚悟が必要なわけです。

自分の人生より社会全体の方が大事、と思って行動する人は少ないから、結局おかしいことがあっても、何もなされないままに終わってしまうのが常。

そして、なぜ上が「おかしい」ことを認めないかというと、「おかしい」=「失敗」と自他共にとらえ、「失敗」は「減点」につながるからだ。減点されると、まわりから認めてもらえず、評価は下がり、傷つき「悲しく」なる。

また私事になるけど、昨日セラピーに行って、セラピストから「失敗はつぎの大いなる躍進の印」と言われた。だから失敗を恐れてはなにも前に進めない、失敗をしないという人生は、成功もしないという人生だ、だから傷つくのを恐れていたら、前に進めない、と。考えてみたら、日本語にも「失敗は成功の元」ってあるよね。
わかるんだけど、実際には難しいなあっと思った。傷つくのは悲しいし、悲しい事はなるべくさけたい。
でも、その悲しい事をさけることで、また別の悲しい事を生んでしまうのであれば、話は別だよね。

リスクが発生する度に、 微調整したり、対策を打ったりする

これって、正に人の生きかたそのものだと思います。

対策のためのコミュニケーションができなければ、対策は打てない。そして自由なコミュニケーションは、そんな「失敗」「減点」に囚われていては成り立たない。
むしろ「ばかなことでもなんでもいいから言ってごらん~」ぐらいにしないと。

日本の教育でさるうさぎが得たものは、その逆だった気がします。「よけいなことは言わない」みたいな。「親や目上の言う事をきく」とかも。何気に、「親や目上って、絶対に正しいの?」と思ったけど、なぜ、なんて聞ける雰囲気じゃあなかった気がする。
その点、オーストリアの教育はほぼ間逆。
一例をあげると、旦那のお母さん。義母は小学校から高校まで、フランス語教育のリセに通い、ドイツ式よりもさらに「なぜ」が徹底した、フランス式の教育で育った上、大学では哲学科で博士号をとっている。
おかげで、ひとつ「なぜ(Warum?)」を質問すれば、10くらい「理由(Grund)」が返ってくる。そんなおばあちゃんに面倒をみてもらった、旦那の妹の子どもは、Grundをたくさん聞くのがうざくなって、Warumを聞かなくなったくらい。
義母は大抵の人なら論破できる。
311が起こって、妹家族が一時疎開のため子供達ともどもウィーンに来ることになり、航空券を買う際、クレジットカードが限度額を超えてしまうため落ちない、という問題が発生した。
義母に相談したら、こっち時間朝の5時という時間にもかかわらず、リセ時代の学友で、VISAカードにお勤めのおえらいさんに電話してたたきおこし、妹の窮状を訴え、フクシマの危機を語り、とうとう1日だけ限度額をあげてくれることを説得したのである。
ひえ~。むしろたたきおこされた学友の方に申し訳なく思いました。

これはかなり極端な例だけど、お互いが話し合って結論を導き、それを実行するとう土台は、こちらでは感じます。

そうそう、いきなり話はかわるけど、さるうさぎがある程度恐れを持たず「おかしい」と言えるのは、両親のおかげでしょう。
父も母も、自分の生まれた村(!)の人たちが言うようにするのが大嫌いな人で、親戚の中で今では唯一県外に出てしまった人たち。いろいろ細かい問題はある両親ではあるけど、わたしはおかげで「みんながそうするから」というしばりはなく育った気がする。
感謝しなければいけないんだろうな~。