体罰孝(2)心の教育と頭の教育 (1/11)
人間を教育するというのは、なんでも「不完全な人を、やや完全な方向に進ませる」ということですから、なかなか難しいものです。私も20年の教師生活を経て、その難しさを身にしみて感じています.
あるとき、私は指導に悩み、毎週、教会に通って牧師様のお話をお聞きし、時には聖書の勉強会に出ました。それは「自分の前を通りすぎる悩む学生」を助けることができないのです。その学生は私から見ると、ある考えにとらわれ、錯覚し、悩み、ズルズルと悪い方向に進んでいるのですが、それを直すことができないのです.
イエス・キリストが道ばたで会った悩む人を一言で解決してあげていたのを読み、どうしたらあのようになれるのか、万分の一でも勉強したいと思ったのです.
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教育方法の分類はいろいろありますが、一つに「心のほうから教育する」というのと「頭のほうから教育する」というのがあります。人間は複雑な生物で、頭が良いのですが、それでいて頭で理解する事が難しい生物でもあります.
そこで、教育をするに際して、「心からする」という方法があります。これは良く「門を叩く」という方法で、ある先生の門を叩いて入門させてもらっても、肝心なことはさっぱり教えてくれず、毎日、掃き掃除、拭き掃除、風呂の準備をさせられて1年・・・という事になります。
この教育方法は「これから学ぶことを頭で理解するための心の準備」でもあります。そして教育が始まっても「座禅、水垢離、荒修行」などによってさらに「体と心を鍛える」ことまでします。
このような教育方法は、あまり深く考えない場合は、教育をする方(先生)のワガママだと言われることもあり、また、日本でも知識人などが特にそのように考える傾向があります。
大学で研究をさせるときに、掃除や後片付けをしないとその場で、研究を止めさせていたことがあり、それについてある大学の顧問弁護士から「大学と学生の間の契約内容に反する」と注意されたことがあります。
弁護士の言うのは「学生は「勉強」するために授業料を納めているのであって、学生が散らかした実験器具を整備するのは大学の役目であり、それは人を雇って掃除させるべきだ」という趣旨でした。(学校教育法第11条の体罰規定には体罰の具体的なことは記載されていない。文科省の指導があるが、一方的なものなので、このシリーズでは取り上げない。)
私の研究経験では、自分が使う実験器具や材料などは自分の魂としてそろえないと実験自体がうまくいかないのです.ちょうど、お寿司屋さんが包丁とサカナを大切にするようなものですが、それは現代契約論では含まれていないのです。
研究というのは未知のことに挑戦するので、とても心が乱れるので、それを克服するための訓練が必要です。それはあるいは水垢離であり、荒修行であり、さらに日頃の身の回りの物に対する愛着でもあります.それらが最後の苦しい場面で研究を支えます.その第一歩が「片付け」なのですが、それはまだ教育方法として定型化されていないので、弁護士には理解できなかったと言うことです。
このブログにも何回か書いたように、元々教育の目的というのは学力とかスポーツの能力を高めることでは無く、その人間の人としての力を上げるものですから、その手段として授業を受けさせたり、実験したり、あるいはバスケットボールを教えているに過ぎないのです.
私たちは「心の教育」が目的で、そのために「頭の教育や体の教育」をしているということをもう一度、教育基本法(旧条文)を示して、今回の体罰問題を考えてみたいと思います.
「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
2013年正月に起こった高校の体罰と自殺の問題は、この条文と比較してどこに問題点があるのでしょうか?
(平成25年1月11日)
--------ここから音声内容-------
教育というのはですね、不完全な人を、まあこれは何が不完全なのかわかりませんが、足し算ができないっていう不完全さもあるし、根気が無いという不完全さもあります。そういった不完全な人をやや完全な方向にすすませるという事ですから、大変に難しいものなんですね。
私も20年ほどの教師生活をして、その難しさを本当に何回も身にしみて感じております。ある時ですね私は指導に非常に悩んで、毎週、キリスト教の教会に行きまして、牧師様のお話をお聞きし、時にはそれでも満足せずに、聖書の勉強会に出たりしておりました。これはどうしてかっていいますとですね、自分の前を通り過ぎる悩む学生がいるんですね、その学生を助ける事が出来ないんですよ。
まあ、学生が正しいかもしれませんし、私が正しいかはしれませんが、私から見るとその学生はある考えに囚われ、錯覚し、悩み、ずるずると悪い方向に進んでいくんですね。それをやっぱり目の前にするとそれをなおしてあげたいと思うんですよ。これは先生としてなおしてあげたいと思いますし、人間としてもやっぱりなおしてあげたいと思うわけですね。
例えばイエスキリストですと、町であった悩む人に一言声をかけたら、それが解決すると。それはまあ、もちろん神様でありますし、誇張もあるでしょう。だけどもどうしたら、ああいう風にですねちょっとした声をかけて助かるんであれば、万分の一でもそれを学びたいと、こういう風に思ったわけですね。
で、教育っていうのはこういうものでありますので、非常に難しいわけでありますが、その時ですね、現代の教育とやや古い教育と二つありますね。一つは心の方から教育するというもの。それと頭の方から教育するという二つの方法がありますね。あの、今では頭の方から教育するのが当たり前だとなってますので、これを見た人も何言ってるのっていう感じだと思いますが、人間は非常に複雑な生物で頭は非常に良いんですが、かといって頭で理解するほどやさしいかっていうと難しいんですね。
それで、教育をする際に心から始めるという事があるんですね。これはよく先生の門を叩くという。ある先生の門を叩き入門させてもらう「よし、わかった教えよう。」ところが入門しても全然教えて欲しいと思う事は教えてくれなくて、毎日拭き掃除したり、掃き掃除したり風呂の準備をさせられて一年間なんにも教えてくれないっていうことがあるんですね。
これは日本とかそういう、あの日本ばかりではないんですが、ヨーロッパでもそうなんですが、こういった教育方法が不合理だという人がいるんですね。せっかく入門したのに毎日毎日拭き掃除させられてひどいと。まあ、今だったら授業料とってるのにと、こうなるんですが。
実はこれは、これから理解する頭で理解する為の心の準備なんです。さらに勉強を始めても座禅をしたり水垢離したり、荒修行したりするわけですよ。これはですね、頭で理解する為には心を鍛えなければいけなきゃならないっていうことを言ってるわけですね。
難しいんですよ。頭で理解するっていうのは頭教えるのではなくて、頭で理解する為に心が準備されてなければいけないわけです。こういったものは先生のわがままだと言われる事があるわけです。特に日本で知識人が、まあ知識人なんてのはわりあいテレビなんか出て指導しますし、新聞に論評書いたりします。影響力大きいんですよ。(その知識人が)そういうふうに考える事があるわけですね。
私は大学で研究をさせてる時ですね、実験の掃除とか後片付けをしなければ、その場で研究を止めさせた事があるんです。「ダメだ」と。「お前は研究する事ができない」と「明日から止めろ」とまあこういう風に言うんですね。それがある時に問題になって、大学の顧問弁護士がですね、大学とあなたのやり方は、私ですよ、大学と学生の間の契約に反すると注意を受けた事があります。
弁護士が言うにはですね、学生は勉強する為に授業料を納めてるんであって、学生が散らかした実験器具は大学が整備するのが役割だと。だからそういう人を雇って掃除させるべきだ。とこういう注意をされましたね。つまり大学の研究室って言うのは学生が10人ぐらい居てですね、そこで毎日掃除をし、器具を整備し、材料を揃え、そして実験し、レポートを書いてというふうに勉強していくわけですね、だけどこの弁護士が言うのは、それは契約内容に入っていないと、学生は勉強するんだから、だから実験だけさせて、その実験した残りのもの、そこらへんに紙くずとか捨ててあっても、それは掃除のおばさんがやれと、こういうことですね。
で、実は私が掃除とか実験器具の後片付けをしない学生は研究をやめさせるのは何故かと言いますと、私の長い研究経験ではですね、自分が使う材料とか、実験器具をおろそかにする人はですね、実験がうまくいかないんですよ。それは当たり前っちゃ当たり前ですね。
お寿司屋さんは包丁を大切にし、魚を大切にするっていうのと同じでですね、ところがお寿司屋さんは握るだけでいいと、こういう風なのが現代契約論なんですね。
もう一つは、もう少し深い意味がありまして、研究っていうのは未知のものに挑戦するので、非常に心が乱れるんですよ。できるかどうか。こんな事やってて大丈夫か。といつも不安なんですね。その心を克服する為にはですね、昔だったら、水垢離であり荒修行、それから身の回りのものに対する愛着なんですね。自分が材料を準備し、苦労して実験器具を整備した。だからこの研究はなんとか成功させるんだという、人間の頭と心の一体化が必要なんですね。その第一歩が学生に教えている片付けなんですね。
だけども、これは私たちの方が悪いような気もするんです。教育側がですね、弁護士が悪いんじゃなくて。まあ、それを明示もしてないんですよ「学校がどういう事を教育するか」ということをちゃんと書いてないんですね。
えーとまあ、今度の体罰の事でもですね、「体罰をする」という事だけ注目されてますが、いったい高等学校の教育というのはなんなんだ?ということがよく議論されない事の方が問題なんですね。もともと教育の目的っていうのは学力とかスポーツの能力を高める事ではないんですよ。みんなそう思ってますけどね、ほとんどの人は。人間の力を上げるものなんですね。
その手段として、授業をしたり、実験したり、バスケットボールしたりするんですね。これはあの、個人によってそうじゃないんだと。学校っていうのは算数ができたり、法律を知る為なんだって言う人もいるでしょう。だけども、それは国民のコンセンサスではないんです。日本のコンセンサスではないんですね。それは私がここでいつも言ってる教育法第一条(教育の目的)というものを見ればわかるわけですね。
「教育は人格の完成を目指し、平和的な国家、及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」と書いてあって、ここにはですね、算数が出来る事とか、スポーツが得意な事とは一個もありません。ていうことは教育自身はですね、勉強とかスポーツを通じて、真理と正義を愛したり、相手の価値を尊んだりですね、勤労とか責任を重んじる、そういう人を造るというための手段なんですね。
スポーツが得意になる事が目的ではないんです。頭が良くなる事が目的ではないんですね。人間として立派になる為の手段なんですよ。今度の体罰の問題ですね。自殺の問題。これはどういうことなのか?っていうことですね。
今度の事はスポーツでしたけれども、スポーツがうまくなる事が、インターハイに出て優勝する事が目的ではないんです。それだったら高等学校じゃなくて、スポーツクラブでやらなきゃいけないんです。スポーツクラブは別に人格の形成なんて言ってませんからね。もちろんそれも副次的にはありますけれど、基本的には優勝する事という、そういうことですからね。
学校でやるスポーツというのは人格形成なんですね。私が教えてる物理も、物理を教えてる様に見えて、それは物理が出来る様になりますけどね、基本は真理と正義を愛する事。これを教えてるわけですね。物理を通じて真理を教える。真実とはこういうものなんだ。これを愛さなければいけないんだ。ということが学生本人がわかる為に私は物理を教えてるわけですね。
じゃあ今度の体罰の問題。体罰をする事によって、先生は何をしようとしたのか?スポーツを強くしようとしたのか。それともその本人が心を克服しないとダメだと思ったのか。そこですね。まあ、先回もお話しした様に、この例は特別な例で、特殊な例ですからね。この例をあんまり追求しちゃいけないんですね。
つまり、今度の自殺問題を境に教訓にしてですね、高等学校におけるスポーツを鍛える時には、先生がまったく体罰というものなしで出来るのか。
例えば私が実験器具を片付けさせるっていうのはこれ、体罰なんですよ。実際は、弁護士から言うと。「それは先生、体罰だよ」と。実験だけが学生がやる事じゃないか。と。実験して後片付けしないで紙くずは散らばってる、薬品はこぼれてる状態で学生は帰ってしまう。そのあと掃除のおばさんがそれを掃除するのが正しいと弁護士は言います。それは体罰なんだ。
しかし後片付けさせるのが体罰なんだって言いますとね、非常に教育との関係は難しいですね。それは真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじる人材を造る事になるのか。そこにですね、現代日本教育の一番深い検討しなければならない問題があります。
先回言いましたように、今回の問題を特殊な問題として捉えですね、ある程度は自殺という問題が起きたんだから、多少の罰は仕方ないんですけど、それとは別にですね、私たちがこの事件の背後に、何があるのか。ここではですね、まずは教育の目的、それから心と頭、さらには後片付けというのは体罰かとそういうようなことも私たちは考えなければいけない。
だから、体罰が一律に悪いというもんじゃないんですね。体罰の程度問題なのかもしれません。それでは、体罰がいけないと今テレビなんかで言ってますが、体罰がいけないんではなくて、体罰の種類が悪いとか、程度が悪いということであって、実験器具の後片付けをさせるのは体罰ではないと決めてくれないとですね、これは(今の状態では)体罰ですから明らかに。
ですからそこのところを、まあ、いっぱいあるんですね。遅れた学生を教室の後ろに立たせる。これも体罰か。騒いでる学生を教室の外へ出す。体罰か。忘れ物をしたのを取りに帰らせる。これは体罰なのか。えー、手をかけるという事以外は体罰ではないのか、そこらへんもですね、このブログで検討していきたいと思っています。
(文字起こし by まさんちゅ)