教育における「善良」問題01 道ばたで食べない (10/22)
(音声です)
アムステルダムの想い出
ソフトクリームの苦闘
幼い頃の学校や家庭での教育
社会の変化と「善良」の問題
(平成24年10月22日)
--------ここから音声内容--------
学校教育でいじめなどの問題が大きく浮かび上がっていますけれども、意外とですね、いじめの根元っていうのは学校側ですね、例えば校長先生と臨時の教員の間とかですね、それから教育委員会とか教育長と先生の間とか、そういった問題とですね、もう一つは学校で何を教えるかっていうことが決まっていないっていうですね、非常に特殊な状態に現在の日本の教育があると。その中で生まれてきたものでもあるわけですね。
ですからいじめを直接的に色んな対策で抑えるっていうことも大切かもしれませんけども、もう一つの視点としてはやはり学校教育を根本から考えるっていうことも必要ではないかというふうに思います。そういう点でですね、私は今一番学校に欠けているっていうのは、「善良」という問題ではないか、つまり「善いこと」っていうのが決まっていないということですね。いじめは善いことなのか、これ(このこと)からもう決まっていないということですね。
校長先生が臨時雇いの教員をいじめるということは正しいのか…こういった問題が解決してないわけですね。その一つをちょっと書きますが、私はあんまりオランダという国は行ったことなくてですね、学会で2, 3回、それも2, 3日滞留したというぐらいしか経験がないわけでありますが、それでも割合と印象深い国で、なにかこう親切だという感じがしますね。なにか道を聞いても親切に教えてくれます。なんとなく英語もよく通じますね。それでなんとなくこう親しみの持てる国ではあるんですけども。
よくあのアムステルダムからですね、ハーグの方に汽車で移動したりですねしたこともあったのですが、街を歩いたこともしたことがあったんですが、なんとなくですね、オランダ人は歩きながら食べたりですね、電車ん中で食べてるのが多いんですよね。それもなんていうんですか、日本ですと例えば山手線で食べるのはちょっとどうかな、と…新幹線の中ですとなんとなくいいとかですね、まぁ街の中でも新宿で歩きながら食べるっていうのはかなり特殊な人だということもあって、違和感を感じた覚えがあります。
そういう面では「やっぱりよその国だな」という感じがするわけですね。しかし私もですね、実はそういう経験が国内でもあって、一番最初私が苦労したのは、アイスクリーム…ソフトアイスクリームが売り出された頃じゃないかと思うんですが、街角でソフトアイスクリームが売られててですね、それを買ってぺろぺろと舐めながらその場で食べるとか、場合によっては歩きながら食べるっていう人が出てきたわけですね。
それで私はそれがすごく苦痛だったんですね。それはなんで私が苦痛だったかっていうと、これは学校で教育されたのか、それとも家で教育されたのかわからないんですが、道端で食べるとかですね、立ったまま食べるっていうのは非常に厳しくしつけられたっていうか、「そんなことはいけない」と言われましてですね…言われて育ちました。
食べる時はちゃんとお膳の前に座って「いただきます」と言って食べるという、食べる時の行儀っていうのをですね、だいぶ…これ学校…私の家庭はそれほどですね行儀をうるさく言う家庭ではなかったので、もしかしたら先生かなと思ったりですね、それとも友達のお母さんだったかなと思ったりするんですが、いずれにしても小さい頃にそれを叩き込まれたっていうわけじゃないんですけど、まぁそうだったんですね。
ですから物を食べる時は、ちゃんとした所に座ってきちっと食べるというですね、そういうなんていいますかね、自然な気持ちがあったんですね。そういう私から見るとですね、どうもあの…食べながら、歩きながら食べるとかですね、外で食べるっていうのに非常に苦しんだわけですね。
ある時に非常に親しい人と一緒にいたら、その人はアイスクリームを平気で食べてるんですが、「私、食べない」と言って…いや、実は私は今でもあまり食べないんですよ。これはねあの…「いや、私ね、ソフトクリームいらないんです」って、実は違うんですね。ソフトクリーム食べたくてしょうがないんですけど、立ちながら食べるとか、路上で食べるっていうことが、まだこの年になってもちょっとできないんですよね。
で、こう色んなことを考えますとね、今ではその、ソフトクリームを路上で食べるってのはいいかもしれませんね。この前講演でですね、実は横にペットボトルが置いてあったんですよ。そいでコップがないんですね。そうしますと私もふだんはペットボトルをそのまま、なんていいますか、汽車なんかですと平気で飲むんですけど、講演会でですね、人の前でペットボトルをラッパ飲みするっていうのに抵抗があって、結局飲めなかったんですね。「ちょっと失礼します」と言って、ペットボトルのお茶をコップについでから飲むっていう…まぁなんかこう自分にはできないことがあるんですね。
で、もちろん時代が変わっていきますから、昔はその…ちゃぶ台の前にきちっと座って正座をしてですね、「いただきます」と手を合わせて食べるというのが当たり前であってもですね、だんだん時代が変わってきますから、今は外で食べてもいいし、それから人の前でペットボトルをラッパ飲みしてもいいんじゃないかとは思うんですが、しかしですね、私がちょっとこのことで考えるのは、何かやっぱりそういうものがいるんじゃないかと思うんですね。
ところがこの例でわかりますように、今はどっちがいいかわかんないんですよね。昔はある程度「善良」というのは決まってたんですよ。食事する時はきちっと座って「いただきます」と言って食べて、「ごちそうさま」と言って終わるんだと、こういうですね、一つのなんちゅうか習慣といいますか、社会の規律というんですかね、軽いもんですけどもあったわけですね。
で、それがないということは、子供たちにどういう影響を与えるかっていうとですね、子どもっていうのは一つ一つのことをいちいち自分の頭で考えて決めるわけにいかないんですよ。たとえば食べる時にはどうするかとかですね、(昔と比べて「規律」が薄れてきているために)それが千差万別になってしまうんですね。それがふいに怒られたりするんですよ、「なにあなただらしない格好で食べて」…いや、そうは言ったってですね、元々どういうふうに食べたらいいかっていうことがそれぞれの人によって違うもんですからね。
そうしますと、子どもは一個一個についてですね、あるいは怯えたり、あるいはでたらめなことをやったり、あるいは非常に乱暴になったりするわけです。これはですね、戦後…特に戦後ですね、我々が自信を失って、どういう状態が私たちの普通の生活の「善良」かということが決められなくなったっていうことですね。一応決まってて、それが時代の流れと共に少しずつ変わっていくっていうのと、それから日本のようにまったく決まってない、特に宗教がありませんから、何から何まで決まってないというのがですね、一つは大きな教育上の問題としてあるだろうと私は考えています。