著作権とブログ(10/4)
ブログをだそうと思ったきっかけはブログに引用したデータについてのクレームがあったためです。
(私が「日本の常識、あるいは世間一般」と異なる引用やデータの使用をするということで、お叱りを受けることがあります。私は学者として長く論文や書籍を書いてきて、著作権、データの出所などについては当然のことながら守ってきましたし、問題も起こらなかったのですが、ブログや一般書を書くようになってから、バッシングなどを受けるようになりました。これについて、「ブログ文化」を考えてみたいと思います。)
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ポイント
1) 著作権の歴史的成立過程と対象物
2) 最高裁判所判例などと社会の認識(創造物、品質の悪いコピー)
3) ネットやNHKの記載事項・番組が著作権の対象になるか
4) 著作権の乱用と著作に対する倫理
(音声で解説しています)
--------ここから音声内容--------
著作権の問題について少し整理を進めようと思いまして一度書き始めましたが、ちょっと考えることありまして中止しておりました。しかしこの前あるブログに記事を出しましたところ、著作権の問題ではないんですが少し問題が生じました。それなので、ここで著作権についての見解を二、三、述べておきたいと思います。
私はですね、実は現在の日本の常識、あるいは世間一般の常識と異なるデータの使用をしているわけで、時々お叱りを受けることがあります。それは重々承知しとりますが、私は学者として1000編ぐらいの論文を書いてきましたけれども、その中で著作権の問題とか、データの出所などについて一回も問題を起こしたことはありません。
つまり正式な意味ではですね、著作権を守ってまいりましたが、現在のブログとか書籍についての一般的な人の著作権はですね、少し著作権の濫用になっとりまして、そのために私との差が生じると、こういうことであります。
ポイントとしてはですね、まず著作権というのはいつからできたかっていうとですね、産業革命時代のイギリスを中心としてヨーロッパで生まれてきたものでありますが、この著作権ってのはそれほど強い権限として出てきたわけではありません。
ある文化的な活動だとか、いろんな活動をした場合にですね、それがあまりに自由に使われると本人が生活をしてたり、また創作の意欲を失う、また発明については特許権というのがありまして、現在では工業所有権(特許権、実用新案権、意匠権、商標権などの総称)というわけですが、これについても発明者の努力をある程度報いてあげないと、発明する意欲が減退するだろうということで、いわば損得勘定で著作権が出てきました。
このことはですね、非常に重要なことであります。例えばですね、無料でやるとかですね、純粋な科学的なもの…つまり収益に関係のない作業に、著作権が及ぶかという問題はもう一度考えてみなければならない問題であるということですね。
それから日本ではですね、著作権がもちろん明治時代以降に持ち込まれましたので、既にヨーロッパでできあがった著作権の概念を日本に持ち込んだということになりますが、それでもですね、著作権はそれほど濫用するものではありません。従って、最高裁判所の多くの判決をですね、私学者の時に読みまして、自分の著作物が著作権を違反しないように注意をしたわけでありますが。
それを見たところですね、まず第一に著作権っていうのは、人間の創造物について与えられるっていうことですね。これは創造物っていうのはどういうことかっていいますと、例えば円周が3,1419であると…πがですね。これが真実だとしますと、真実は著作権は及びません。ということではですね、事実であるかどうかということがまず問われるわけですね。で、事実の数字っていうのは誰がやっても同じですから、原理的にはですね。これに著作権をかけるっていうのはいけません。だけども、一般的にですね、世間一般では「苦労をしたから、事実であっても著作権がある」と、まぁこういうふうに考えておりますが、これは一般的な著作権とは違うということが言えます。
ただ最近は日本の裁判所もですね、著作権側の主張で裁判が開かれることもありまして、非常に著作権が濫用されておりますが、「事実」が著作権に該当するんであればですね、著作権の概念を今度は「創造物」に対して与えられるんではなくて、「苦労」に対して与えられると…こういうふうにしないといけないと思います。
例えば科学ですと、数字自体は著作権が及ばなくてもですね、その数字をグラフにした時に、そのグラフに芸術性とか創造性があれば、グラフには著作権が成立することがあります。例えば縦軸、横軸をどうするかとか、それからその中の線の太さ、こういったものがですね、例えばパソコンのソフトで作ったらすぐできるというようなもんですと、もちろんこれは真実とですね、創造性のない表だとかグラフの組み合わせですので、こういうものに対して著作権は成立しませんが、非常に見やすくグラフを作ったという場合には、そこに創造性が認められると、こういうふうになります。
それから例えば名作…作品を書きますね。絵だとか。そういうものがですね、非常に品質が悪い場合は、これも著作権が及ばないという判例が多いですね。例えばテレビに映った絵をですね、何か汚い品質の悪いものでコピーして貼りつけたと。こういった場合はですね、本来の芸術性がほとんど失われております。ただ「こういう絵があるよ」という事実を示すことになりますので、これも著作権が及ばないってのが最高裁の今までの判決だと思います。
このようなことを考えますとですね、ネットで出したもの、しかも無料のネットで出して、誰でもがいつも見られるものはですね、本当に著作権が及ぶのかということですね。これは著作権の成立過程では、著作権というのはその人の生活とか、創造意欲に関係がするからですね。
例えばネットに掲げておけばですね、ネットは誰でも見られるわけですね。しかもタダですね。そうしますと、その人はネットに出したからといって儲かるわけではありません。それがもしくは引用されてもですね、損害を受けるわけではありません。従って私なんかもですね、ネットに出してタダで見られる所はですね、これはもう著作権は言いませんよと書いてあるわけですね。
それからNHKなんかも非常に微妙ですね。私が受信料を払ってNHKを見る、NHKの放送は無料で…その意味じゃ受信料を払ってればいつでも無料で見られる。それをビデオに撮ったらそれにNHKの著作権がかかるっていうことになりますと、いったいNHKの所有者は誰かといいますとですね、私がNHKの所有者の一人ですからね。こういったものについては、民放と違って著作権の対象になるかどうか、これを考えなければいけません。現在NHKの番組は著作権があるとされてます。これは裁判の判決もあるんですが、私はですね、これは少し著作権の濫用であろうと思っております。
このようにですね、現在の世の中では著作権の濫用ってのがあるわけですね。現実的には、「真実であって特に芸術性がなく、創造性がなく、それでタダで提供されるものについては、著作権がない」という所でハッキリとしたですね、線を引いておいた方がいいと思います。このタダで提供されるってのは、例えば会員がですね、タダで見られる状態になってる時も該当するんではないかと、こういうふうに考えられます。
このような著作権の制限ですね、著作権は万能ではないということが濫用されるという問題は、著作に対する倫理問題と表裏一体になっとります。例えばある人の作品を引用する時に、本人に了解がなければあまり本人の名前は書かない、と。それで「こういう資料があります」と書くとかですね。それから本人の了解があってもですね、著作に対する批判をする時は、注意をしてできるだけ批判的には使わない、もしくは批判的に使う場合は、本人の了解もある程度得るというふうにした方がいいと思います。
ただですね、批判っていうのは非常に重要なところもありますので、それを本人が嫌がると批判が自由にできないという意味もありますので、やはりこれもですね、社会の常識に沿って事実が進むというような観点から進めるべきだと思います。
現在ブログについては、このような検討が少ないですし、それから裁判に訴えますと、現在の裁判っていうのは非常に体制寄りと言いますか保守的でありますので、本来の著作権だとか、これが社会にどういうふうに役立つかということについての考えが足りないように思いますので、なかなか今後ですね、議論が必要だというふうに考えています。
私はというと、既に立場を明らかにしましたけれども、社会に対して役に立つということは非常に大切なので、著作権は本人が生活の問題がなければ、著作権フリーであるということが大切だというふうに思います。
それから引用すべきかどうかも非常に難しくて、引用すべき時と、引用すべきじゃない時と二通りあると思います。私たちが社会にあるものを示す時には、それが社会に役立つということが前提になっておりますので、それが社会に役立たせるということはですね、著者本人の意向にも沿うと、こういうふうになるからであります。もしも社会に役立たないというふうにお考えの場合はですね、発信をしないということで、これを…著作権を守ると、権利を守るということができると思います。