感動を失った社会 | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

感動を失った社会 (8/4)




オリンピックが開催されて多くの日本人に深い感動を与えています。商業化されたとか、本来のスポーツマンシップを忘れているなどと批判もありますが、やはり頂点を目指して努力してきた人の緊張感、努力に接すると人間は感動するのも事実です。



ところが目を日本に転ずると、政府の公約破棄、原発事故と電力会社の横暴、中学校のいじめ自殺と教育委員会の保身などおよそ感動とはほど遠い事ばかりです。今や日本には街角にヒット曲が流れることもなく、展覧会がどこで開かれているのかもよくわからなくなりました。



このように、私たちの心を揺さぶることが無くなったには様々な要因があると思いますが、私の専門の近くから見ると、それも当然のような気がします。

まず第一に「未来が暗い」ということですが、これは「本当に暗い」のではなく、「一部の人が儲けるために無理矢理作り出した暗さ」です。たとえば、石油石炭天然ガスは1000年は充分あるのに、太陽光発電などの自然エネルギーに補助金を出すために「無い」と言って不安をあおることです。



理想に燃えて太陽電池を研究したり、それを自宅につけたりすることは良いことですが、その時に人のお金を当てにし、電気が余ったら電気料金の約2倍で売ろうとするという背信行為が正当化しています。



「CO2で温暖化する」というのもウソで森林に補助金を入れたい」、「天下り先を作りたい」というだけのことであることが徐々に明らかになってきています.



このような資源や環境の分野での「作り出された暗さ」には、リサイクル、ゴミがあふれる、ダイオキシンは猛毒だ、環境ホルモンでメス化、コンビニエンスストアの夜間営業禁止、レジ袋の追放など枚挙にいとまがありませんし、さらにタバコの追放、メタボ利権、高血圧利権など人の健康を出汁にするものまで出現している有様です。



このような現象は環境問題に限られるわけではありません。年金は積み立てておいた記録が5000万人分、無くなってしまったり、現金自身が政治家の圧力で貸し出されて戻ってこなかったりしています。さらに地震と原発事故で疲弊している国民に、増税したり、扶養家族控除を止めたりと追い打ちをかけています。



これらは作り出された暗さで、本物の暗さではありません。世界の資源はたっぷりありますし、温暖化はしません。ゴミは焼却すれば町にあふれることはなく、タバコで肺がんになる人の数は少ないのです.



むしろ、日本は諸外国に比べて対外資産が極端に多く、技術力も高く、国民の真面目さ、勤勉さが残っていますので、未来は全く心配は無いのです。多くの人が毎日を楽しく過ごせば、景気は良くなり、日本の将来は明るくなるでしょう。



第二に「誠実な社会」を作ることです。ギリギリの商売の中で若干のだましが入るのは良いのですが、毎日の生活や目に見える政治の世界でだましが連続すると、人間はすっかり夢や目標を失います。



現在の日本では「政府が「悪」であるとき、「正」を何で決めるのか?」という問題に直面しています。そして本来、学問の自由が保障されて学問に忠実であるべき学者が曲学阿世(御用学者)であったり、表現の自由で守られている報道機関が事実を報道するのをためらうようなことが起こっています。



選挙の公約の遵守、学問への誠実性、報道の公平性などはいずれも社会の基幹をなすものですから、これらが崩れたら社会が暗くなるのは言うまでもありません。



さらに、ある主婦の方から「真実を口にするのが憚られる時代」というメールをいただきました。ヒットラーのドイツ、スターリンのソ連に代表されるように、日本も真実を口にするとバッシングを受ける社会になりました。



社会的に将来が不安で、ウソが多く、思ったことを口に出せない社会・・・そこに感動があるはずもありません.どんなに貧乏でも「明日は今日より良くなる」という確信や、「自分の身の回りは愛と信頼に満ちている」という安心感こそが人間を人間らしくし、人間の知性、美的感覚、情緒などが花開くのです。



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ヨーロッパの中世は精神が抑圧された時代でした。ある若者が高僧に「太陽を観測すると黒い点のようなものが見えます」と言ったところ、高僧は「古典を調べてみる」といって寺院の中に入り、しばらくして出てきて「古典をくまなく調べたが、そのような記述はない。黒い点やらは君の眼のシミだろう」と言った。



この話は中世の抑圧されていた時代、新しい事実を見いだしてもそれを認めてくれず、形式論だけで進んでいたことを示しています.このような社会の雰囲気では科学や芸術は進歩せず、だからこそ「ルネッサンスの爆発」があったのです。



まず、自由な雰囲気の日本、誠実を大切にしてウソを嫌う日本、他人をバッシングしない日本、優れた子供を素直に褒める日本、自分の国の伝統に誇りを持つ日本、そして日本の国土は日本人が守るという決意を持った日本を作ろうではないかと思います。



私個人はどんなことが起ころうと、常に真実を語り、楽しく生活し、誠実に生きようと思っています。それがたとえバッシングの対象になっても全然気にしません.誰かが行動に起こさないと新生日本は誕生しないからです.たった一人の力ですから微々たるものですが、それでも同じ気持ちの人が大勢おられることを励みにやっていきたいと思っています。



自殺、放火が世界のトップクラスという今の日本が病んでいるのは言うまでもなりませんが、それは「回避できないこと」ではなく、私たち大人が決意をすれば回復できることだと思っています.


(平成24年8月4日)




--------ここから音声内容--------




オリンピックが開催されて多くの日本人に深い感動を与えてるわけですね。オリンピックは商業化されたと言われたり、なんか少しズルがあったりしましてですね、本来のスポーツマンシップの美しさが無いというふうにも批判されますけれども、やはり私たちオリンピック見ると、頂点を目指して努力してきた人の緊張感だとか、努力に接すると、非常にこう感激を覚えますね。





むしろ現在の我々の日常生活の中に、ほとんど感動が無くなってきたっていうことが、多くの人をまた更にオリンピックに惹きつけるのではないかというふうに思いますね。ちょっと余計なことを言いたくなりましたが、いつもいつも形式的な事を言ってるNHKが、オリンピックではウソはつけませんからね、それもなかなか良いのかもしれません。





目を日本の中に転じますと、政府は公約を破棄する。選挙で選ばれてる人が選挙の時の公約を破棄するわけですからね。原発事故が起こっても東京…電力会社は傲慢な態度をとる。中学校のいじめ自殺があると教育委員会は保身がもう露骨に見えると。まぁ、全然もう「感動」とかそういう言葉とはもう程遠いものばかりがあります。




ちょっと私、ここでまた余談でありますが、かつてヒット曲が街に流れてですね、多くの人がそれを口ずさみ、またその曲を聞いて「ああ、郷里から出てきて随分経ったなぁ」と思うようなことがあった。展覧会も結構あり、交響楽団っていうのも結構ありましたね。どこか全部分からなくなりました。しかし、私の専門に近いところから考えますと、「まぁ当然かな」っていう感じもしますね。





まず第一に「未来が暗い」んですけども、これは「未来が本当に暗い」んじゃなくて、暗いことを作ってる…つまり、「一部の人が儲けるために無理矢理暗くしてる」っていうことですね。たとえば、石油石炭天然ガスは1000年ぐらいあるのに、「無い無い」って言わないと、太陽電池などの自然エネルギーに補助金を出せないからと言って不安をあおる。





まぁ太陽電池のことについて私はね、とても不本意だっていうか、嫌なんですね。もう50年も研究してるんですよ。それで、研究者魂があれば、そんなの補助金もらいたくない筈なんですね。しかも理想に燃えて太陽電池を付けるなら、建てる時に半分は人の金を貰う、売る時にも倍の値段で売るっていうのはね、そんな人に迷惑掛けながら、「私が正当だ、私が正当だ」つってもですね、ちょっと私なんかは、もう鼻白んじゃうっていう感じですね。





「CO2で温暖化する」っていうのも徐々に間違いであることが明らかになってきました。これもでも、「リサイクル」でしょ、それから「ゴミが街にあふれる」とか、「ダイオキシンが猛毒だ」とか、「環境ホルモンでオスがメス化する」とか、「コンビニエンスストア夜間営業しちゃいけない」とか、「レジ袋を追放しよう」とか、本当にこういった類の不誠実な行為っていうのは枚挙にいとまがありませんね。





更に最近では、「タバコが肺がんになる」と言って追放し、「メタボがちょっと男性のお腹が85センチ以上だったら健康保険組合に意地悪する」と言ったりですね、「高血圧を130ぐらいに設定して、それ以上になると、降圧剤を投与しなきゃいけない」っていうことを決めてですね、薬屋さんがボロ儲けするとか、ほんとロクなことがありませんね。





これは勿論、環境分野だけではない。勿論ここでは話が広がっちゃいますから言いませんが、年金もですね、積み立ててた年金の記録が5000万人分おかしくなるとかですね。現金もですね、貯めてた現金も政治家が貸し出していて戻ってこない。最近では地震と原発で疲弊してる国民にですね、増税を課すと。更に扶養家族手当の控除を止めて、子育て資金も出さないといったですね、まぁ二重三重に未来を暗くしてる。





この前あるところで講演しましたら、5~6人の主婦の人がですね、「どうせ私たちは誤魔化されて損すんのよ」と。「もうしょうがないわね」ってなことなんですね。ほんとに悲しい世の中であります。これは本物の暗さではありません。勿論、日本は諸外国に比べて対外資産がダントツに高くて、技術力も高い、国民は真面目である、勤勉さが残ってる。全く将来に不安はありません。もしも日本人の多くの人が毎日を楽しく過ごそうと思いさえすれば、景気は良くなり、日本の将来は明るくなるってことですね。





しかし、その第二番目、感動を失ってる第二場目は、やっぱり「誠実で無くなった」っていうことですね。商売のギリギリの時には若干のだましが入るんですが、毎日の生活にいちいちだましてたらダメなんですよね。それはもう、だましがあるような世界は夢や目標を失います。





今一番難しいのはですね、「政府が「悪」であるときに、「正しい」ということを何で決めるか?」ってことですね。総理大臣が言った事を裏切ると、「言った事を裏切っても良い」ってことに一応なりますし、報道機関が福島原発から全部逃げて、「放射線は安全です」と、「被曝は安全です」と言うとですね、いったい何を基準にしていいか分かんなくなってしまうんですよね。こういった、本来やるべきことをやらないってことになる社会が一番難しいんですよ、ええ。





まぁとにかく、いずれにしても、たとえば、選挙の公約の遵守とか、学問の誠実性ですね、それから報道の公平性ってなものはですね、社会…明るい社会の基幹をなすものであります。ある主婦からメールでですね、「真実を口にするのが憚られる時代」というメールをいただきました。「いやぁ、そうだなぁ」と思いましたね。ヒットラーの時のドイツ、スターリン時代のソ連という、代表されるように、(日本も)真実を口にするとバッシングするっていう社会になりますとね、これは物凄く暗くなるわけですね。





つまり今、日本社会が暗いのは「自作自演である」っていうことを言いたいんですね。社会的に将来が不安なのを作り出して、自らウソを言って、思ったことを口に出した人をバッシングする。こういう社会を自分たちが作ってるわけですね。それに対して、どんなに貧乏であっても「明日は今日より良くなる」という確信を持ったりですね、「自分の身の回りは愛と信頼に満ちているんだ」という安心感を持てばですね、これは人間らしく、人間の知性、美的感覚、情緒というものが花開くわけであります。





それはもうすでに歴史的にも証明されていて、ヨーロッパの中世っていうのは非常に精神的に抑圧されたわけですね。有名な話の一つに、ある若者が偉い僧侶にですね、「どうも太陽を見ると黒い点のようなものが見えるんです」とこう言うと。そうすると僧侶がですね、「ちょっと古典を調べてみよう」と言って寺院の中に入って、しばらくして出てきまして、「どうも(古典を)くまなく調べたけども、そのような記述はないので、太陽に見える黒い点というのは、君の眼のシミだろう」とこういうふうに言ったという話が伝わっております。正に、この抑圧された時代というのは、形式論ですね。





「CO2出すと温暖化する」という形式論。「ゴミを出すとそれが街に溢れる」という形式論ですね。「原発は安全である」という形式論。形式論だけで進むわけです。それでは、人間の心は解消されませんから、爆発しません。





まずですね、日本すぐできますから、自由な雰囲気の日本。誠実を大切にしてウソを嫌う日本。今は、ウソを歓迎して誠実をバッシングしてんですけどね。優れた子どもは素直に優れてると褒める日本、自分の国の伝統に誇りを持つ日本、そして日本の国土は日本人が守るという決意。こういったものをやればいいってことですね。





私自身は、まぁ年を取ったということもあってですね、周りがどうであろうと、常にこれから真実を語り、明るく生活をし、誠実に生きようと決意をしております。バッシングされてもいいやと。多くの人がですね、同じような気持ちなんですよ、実は。だから別段、私だけとかそんな気張ったことじゃなくて、みんなと一緒にやろうっていうような感じなんですけどね。





まぁあの、自殺がほぼ世界一に近い、火災の原因の放火はもう50%を超えたっていうようなですね、だから、火事を無くすのは実はあの、「火の用心」じゃなくて「放火注意」と、もうこんな時代になっちゃったんですね。しかし、これは「回避できないこと」ではありません。私たち大人がですね、この際決意をして、子どもたちにこの社会を渡すまでにはですね、またかつてのような明るい日本を回復しなければならないと思ってます。


※曲学阿世…学問の真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間に気に入られるような説を唱えること。真理を曲げて、世間や時勢に迎合する言動をすること。▽「曲学」は真理を曲げた正道によらない学問。「阿世」は世におもねる意。「阿」はへつらいおもねる意。「阿世曲学あせいきょくがく」ともいう。 出典『史記』儒林伝じゅりんでん


(文字起こし by haru)