「節約」は家庭で、国際社会は「競争」で (7/21)
現代の日本では「節約」はオールマイティーでどんな時でも「万能のお札」のように良いこととされているけれども、「節約」は良いことばかりではなく、「両刃の剣」でもあります。
社会や人生には「ジッとしていること」が良いときと、「積極的に攻勢にでないと負けてしまう」ことがあります。生物というのは競争をし、進化を遂げ、一時すら止まっていることはないからです。「生物の業」と言ってもよいので、自然らしい、人間らしいというのはむしろ競争の方がしっくりします。
「ジッとしていても良い環境や時代」には「節約」することが良い場合もあり、たとえば日本でも江戸時代のように鎖国をして外国と関係を絶ち(競争せず)、生産力が低い場合がそれに当たります。それでも江戸時代は飢饉、子供の間引き、短命、辛い毎日など決して今、考えるような良い生活では無かったのです。
ところで、いつの時代でも家庭は競争もなければ生産もする場ではないので、「家庭では贅沢より、節約したほうが幸福になる可能性が高くなる」ということは言えます。「ホッとできる場所」の家庭は競争とは無縁です。
家庭は「愛する家族、長くなじんだ愛用品」に囲まれて穏やかに過ごす空間です。
でも、「節約」を社会に持ち込むと、一般的にはその国は滅びてしまいます。「節約」は「活動量を下げる」ことを意味しますから、それだけ競争力が低下するからです。最近では節電がはやり言葉で、「クーラーの設定温度を高めにする」というのが良いことにように言われますが、もしそれで能率が下がる場合には適切なことではありません。
また「ムダ」と「節約」は違います。「ムダ」というのは同じ活動量で物やエネルギーを減らせることであり、「節約」は活動量を減らす結果になることが多いからです。
ここまで、「節約と人生の幸福、日本の発展」に焦点を当ててきましたが、もう少し深く考えてみましょう。
日本国憲法には基本的人権が明記され、日本国民は一人一人がその人の人生観、思想、信条によって自由に生きることができると定められています。私はこの基本的人権の考え方を支持しています。
「太く短く生きる」、「少しぐらい苦労しても好きなことをして人生を送りたい」、「自分のお金の範囲で法律に触れなければ贅沢もしたい」というようなことは私にはすべて健全な考え方と感じます。
世の中には、真面目一徹で模範的な人もおられますが、少し抜けているけれど人柄が良いとか、変人だけれど何かに夢中という人もいて良いのではないかと思うからです。「いても良い」というよりも、そんなことを考えること自体が傲慢で、いろいろな人の人生を自分の価値判断で「良い悪い」と決めること自体が傲慢なように感じられるからです。
今から20年ほど前、主として官僚などが中心となって「日本国民は節約が好きだから、それを狙って金儲けをしよう」という計画が芽生え、「ゴミゼロ」、「CO2削減」、「節電」などと言う世界でも希で、科学的原理に反する運動が展開され、ずいぶん多くの税金を取られました。
そして社会に吹き荒れた「節約ブーム」のために、経済成長は低迷し、中小企業は四苦八苦の状態になり、道路の改善が遅くなって小学生が交通事故にあい、山野の対策も遅れて豪雨禍に苦しんでいます。まさに「積極的にでて発展していかなければならない」というところまで制限が行き渡っている状態です。
夏のクーラーにしても、「つける方がイヤだ」という方が多いのは当然です。その人もその人なりの「信条」や「体調」があるからです。でも、それはあくまで個人の思想信条の自由であり、他人に自分が良いと思うことを押しつけるような社会はそのうち、自分自身がイヤなことを押しつけられる事にもなります。
ちょうど良いタイミングなので、「家庭では節約、社会は積極的に」という方針に切り替えれば、日本人の活力と個人の強さは格別なので、自由に個人がその想像力を発揮すれが明るい日本ができると思います。
「節電」、「ゴミ減量」、「CO2削減」などを日本社会全体で強制するようなことは止めて、全体としては日本社会を発展させ、お金の流通を増やして少し生活を楽にし、会社の収益を上げて前向きに赤字国債や年金問題などを解決する方が良いと考えています。
(平成24年7月21日)
--------ここから音声内容--------
電力会社課長のですね、かなりひどい発言から一週間ぐらい経ちまして、私もですね、少し前向きの、この執筆を続けているわけでありますが。今日はですね、「節約」とはいったいどういうことか?ということを考えてみたいと思います。
今の日本ではですね、「節約」と言うと、もう「オールオーケー」と「万能のお札」みたいに言われておりますが、必ずしもそうではないわけでありまして。この人間の社会といいますか、自然っていうもんですね、これは宇宙ができて爆発して、地球が誕生して、恐竜の時代もあり、それから今、人間がいるわけですね。なんでこんなふうに変わっていくのか?これはですね、もう「変わっていくのが自然である」というふうに考えた方が良いわけですね。で、変わっていく時にどういうふうに変わるか?っていうと、「競争によって勝ったものが残る」という、まぁ悲しいというかですね、そういう社会の中に存在します。
勿論あの、「ジッとしてて」も良い社会っていうのもない(わけ)じゃないわけですね。例えばよく日本では、江戸時代がその引きあいに出されますが、それはあの、江戸時代が鎖国状態であって、必ずしも外国との競争にさらされてなかったっていうようなこともありますし、また、物が足りなくてですね、現実的に節約をせざるを得ないと、ジッとしてた方が良いという時代もあったわけであります。
しかし、その江戸時代は本当に夢のような時代だったか?っていいますと、飢饉はありですね、子供は間引く必要がある時もあり、短命でありですね、毎日の生活はかなり辛かったわけであります。今考えるような、例えば、救急車がすぐ来る、コンビニエンスストアがある、だけども、のんびりとした生活もある、なんていう、そういうですね、良いとこ取りの生活では無かったわけですね。
それからもう一つのこの「節約が万能である」という錯覚は、家庭との問題ですね。家庭はですね、競争もなければ何かを生産するっていう場では、通常ではないんですね。ですからまぁ、「家庭は贅沢よりも、節約したほうが幸福になる」っていうのはもう間違いないわけです。これは家庭が「ホッとする場所」ですね。「愛する家族、長くなじんだ愛用品」に囲まれた穏やかな時間を過ごす所。これが、家庭ですね。まぁ勿論、家庭が仕事場になってる時もありますが、まぁあの、「家庭」と「仕事場」というふうに分ければ、家庭というものはそういう場所であります。
しかし、その家庭でですね、非常に良いことである「節約」というものをですね、競争社会に持ち込みますと、普通には…歴史的には、その国は滅びてしまいます。どうしてか?って言えば、「節約」するってことは「活動量を下げる」ってことなんですね。人間はですね、競争ですから、活動量が高ければ高いほど勝つんですよ。例えば、スポーツでもそうですよね、ひとつでも練習すれば良いし、練習環境が良い方が良いし、ボヤッとしてたら競争には…オリンピックには勝てないんですよね。
で、まぁこの、例えば「クーラーの設定温度を高くする」というのは良いんだと言いますけども、「暑い、暑い」と言って能率が下がるんですと、やっぱり競争には負けるんですよね。これもうしょうがないんです。「競争に負けたって良いじゃないか」っていう議論は、ちょっともう少し考えなきゃいけないですね。
それからもう一つ、私最近ね、ちょっとね、言葉間違ってんじゃないかと思うのは、「ムダ」と「節約」とは違うわけですね。「ムダ」っていうのは、「同じ活動量で、物やエネルギーを減らせる」ということですね。「節約」というのは、どっちを言ってんのかよく分かんないんですよ。活動量を減らす結果になる節約は、良くはないんですね。
で、そういうふうに考えますと、「節約は個人の生活では良いことである、人生の幸福は節約の方が良いだろう」。でも「社会の発展、日本の発展には節約は非常に危険である」ということが見えてくるわけであります。
もう一つ私ね、そういうふうな、いわば少しレベルの低いといいますか、そういった議論に加えましてね、やっぱり日本国憲法の基本的人権というものを、ここでもう一回思い起こすべきではないかと思いますね。「日本国民は一人一人がその人の人生観、思想、信条によって自由に生きることが選択できる」っていうのが重要で、私はこれ大切だと思うんですよ。
「私が正しい」なんてことは、普通有り得ませんからね。だけどまぁ、言えば、みんなが一人一人が、その自分の正しいと思うことでやるってのは良いんじゃないかと思うんですよ。
例えば人によっては「太く短く生きる」っていう人もいるし、「細く長く生きる」って人もいるでしょう。それから、「少しぐらい苦労しても好きなことをして人生を送りたい」という人もいますし、「苦労はしたくない」という人もいるでしょうね。それからまぁ、「お金は稼げば贅沢したい」という人もいるかもしれません。「旅行に行きたい」 「美味しい物を食べたい」っていうのは、これ私ね、健全じゃないかと思うんですよ。で、「美味しい物を食べたい」っていう人もいるし、それから「クーラーを充分につけたい」っていう人もいると思うんですよ。同じですよね。
あるいは「美味しい物を食べる」っていう方が良くないかもしれませんね。例えば、多くは動物・植物の命をいただくわけですから。「もっと質素に食べたら?」と、「命は大切だよ」って言われりゃあね、「私クーラーつけるだけだから、たいして生物の命を奪ってないよ」なんて言われるとですね、「お金がちょっとあったから美味しい物を食べる」っつったら誰も非難しないのに、「お金がちょっとあるのでクーラーを充分つける」って言ったら「お前は悪い奴だ」っていうのも、ちょっと言い過ぎでしょうね。
それからもう一つは、まぁ、世の中には、真面目一徹な人もいます。模範的な人もいますが、ちょっと抜けているけども人柄が良いとかね、変人だけど何かに夢中になってとても良いとかいう人も良いんですよ。その人達が悪いっていうのもちょっと、私はねぇ、あまりに狭いかなっていう感じがしますね。で、基本的には自分が考える「良い」ことが、他人にとっても「良い」というような、他人の思想を自分の価値判断で決めるっていうのがイヤなんですよ。これが節約とかそういうのにあるんですね。「アンタ、節約しないの?」と。ね、環境を汚してんなら別ですよ。環境を汚してるなら別ですが、そうじゃない場合はですね、やっぱり、そりゃちょっと言い過ぎのような気がしますね。
ところが、これの特徴ですね、「日本人が節約が好きだ」とか、割合と多くの人がそういうのが好きだとかいうことに乗ってですね、今からちょうど20年くらい前に、主として環境省なんかを中心にですね、「日本国民は節約が好きだから、それを狙って金儲けしよう」と思ったわけですよ。これが「ゴミゼロ」運動だったり、「リサイクル」だったりですね、「温暖化」だったり、現在の「節電」だったりするわけですね。
これはもう日本人独特なので、世界でもそういうのをやってるのは希であると、「リサイクル」も日本ぐらいのもんしかやってませんしね。僕らウソはつかれるんですよ。例えば私、リサイクルの時にドイツとイギリスを調査に行きましたらね、その時あの、日本ですと「ドイツとイギリスは、ほとんどリサイクルしてる」って話だったのに、ドイツは8%、イギリスは1.5%だったんですよ。「なんだ」と思って帰ってきたことがあるんですけどね。
そういうようなウソ、「CO2削減は温暖化(対策)」ですね。「温暖化したら南極の氷が溶ける」なんてウソをこう、何回も繰り返し放送すると、そういうようなことがあると。「節電」もそうですね、今NHKなんかを見ますと、「節電するのは良いことだ」ということを前提に、こう放送が組まれているって感じですね。
で、このような「節約ブーム」が続いたもんですから、日本の経済成長は低迷しまして、中小企業は四苦八苦して、道路の改善も遅くなって小学生が交通事故にあったり、山野の対策も遅れて豪雨が来るとまたその家が流れたりって苦しんでるわけですね。こういうことは、やっぱりほんとは「積極的に出て、災害を減らしたり、生活をラクにしたり、企業発経営が良くなったりする」っていうことが大切なわけですね。
勿論ですね、それと反対はあるんですよ。夏のクーラーでよくありますけど、「私はつけるのがイヤだ」と「クーラー好きじゃない」と。勿論、それはそれで良いんですよ。だけどもそれは、「信条」とか「体調」もしくは「仕事の能率」っていうのがありますからね。あくまでも個人の思想信条の自由であって、「自分がクーラーをつけない」っていうのは良いんですけど、「他人にクーラーをつけることを禁止する」ってのは良くないですね。僕はあの、「クールビズ」って嫌いなんですよ。わざとネクタイ締めてるんです。ほんとはネクタイ嫌いなんですけどね。だって、どういう恰好をするかっていうことまでね、強制されるってのは、ほんとに息がつまる社会ですね。
私はですね、この際、中庸をとって「家庭では節約、社会では積極的」っていう方針に、日本が切り替える時だと思うんですね。日本は非常に活力もありますし、個人個人の力は格別ですので。私はですね、社会がもう少し積極的になれば、日本は発展すると思うんですよ。ですから、「節電」、「ゴミ減量」、「CO2削減」などはですね、日本社会全体でやることは止めて、個人でやるのは構わないんですよ。全体としては社会を発展させて、お金の流通を増やして、生活を少し楽にする。もしくは会社の収益を上げてですね、それによって赤字国債とか年金問題を解決するっていう「前向きに変える時代」ですね、そういうものに変える、ちょうどこれもですね、良いチャンスであるというふうに思います。
(文字起こし by haru)