科学の心と低線量被曝 | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

科学の心と低線量被曝 (6/25)




先日、ある読者の方から「低線量でDNAの損傷がない」という論文を送っていただきました。それは健康に関する医療ニュースでその中に論文が紹介され、理科系とおぼしき人が「このような論文があるのだから、規制は厳しすぎる」というコメントをつけていました。



科学に携わるものとして、残念ですが、エセ科学者がこの世に多いことも確かです.とくに「政権にすり寄る科学者」がいるのはある意味で仕方が無いと思います.



スターリン時代のソ連ではすべてのことに政治が優先され、その中で「ルイセンコ学派」が誕生しました。「共産主義の元で育つ穀類や野菜は良く育つ」という理論で、このばからしい理論が当時のソ連の学会を支配したのです。



科学は「何が正しいかわからない」という疑いが第一ですから、共産主義の元で植物の生育が違うということが起こっても良いのですが、このような画期的な結論をだすには長い間の慎重な研究が必要です。でもルイセンコ学派の場合は「そのほうがお金がもらえるから、名誉が得られるから」というのが動機ですからもちろん科学でも何でも無いのです.



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かつて「石けん・洗剤論争」というのがあり、主婦を中心として「洗剤は環境を汚す」という神話が誕生したことがあります。私はそのようなことがあり得るのか調べるために、当時知られていた200ほどの論文を読んでみました。



その結果、確かに洗剤が環境を汚染するという論文はあるのですが、それがある特定の研究機関だけで、その結果は他の研究機関ではデータとして認められていませんでした。



次に40ばかりある「洗剤は環境を汚染する」というデータのチェックをしました。そうすると論文ですからある程度の信頼性があるのですがやや特殊でデータも少なく、結論にも飛躍が見られました。



つまり、科学論文は結果を示すだけではなく、それに対する著者(学者)の考えが書いてあるものなのですが、それがつじつまが合っていないのです.新しい発見はそれまでの知見で説明できないことがあるのですが、それでも「なぜ、同じ界面活性剤で違いがあるのか?」というぐらいの説明か一部の研究が必要です.



もう一つ、私たちは「実験データ」と「科学的原理原則」の関係も核にします.たとえば被曝なら、エネルギーの高い電磁波(放射線)と高分子物質(人体)の関係はさまざまな研究でわかっていて、それと被曝データの関係を考えます.



また、 人間は原始的動物やマウスなどと違って、放射線の損傷に対して素早く修復する力を持っています.だから、ただDNAが破損したからそのままガンになるというものでもありません.



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つまり、石けんと洗剤の問題でも、低線量被曝と健康の問題でも



科学は慎重です.そしてわからない時には「危険側」に重点を置き、徐々にその限界を明らかにするという原則を守ります.その意味では、「石けんと洗剤」という問題は、「石けんでも洗剤でも使用する量を減らす」というのは安全側なのですが、「石けんと洗剤のどちらが危険」という判断は「危険側」がないのです。



低線量被曝は問題がないという論文は多くあります。同時に危険という論文もあります。このようなとき科学は謙虚に「わからないから安全側に」というのが「科学の心」と言うものです.



一般の人をだますのは専門家にとって簡単なことですが、同時に専門家は「専門家の倫理」によってそれを厳しく戒めています.最近の低線量被曝の報道を見ますと、ルイセンコ学派(お金と名誉)の人や、科学の心を持たない人、それに専門家の倫理に厳しくない人が目立ちます.


(平成24年6月25日)




--------ここから音声内容--------




先日、ある読者の方から、「低線量で動物のDNAに損傷がない」という論文を送っていただきました。これは健康に関する医療ニュースの中に紹介された論文で、コメントを読みますと理科系と思しき人がですね、「このような論文があるんだから、規制は厳し過ぎる」というコメントをつけとりました。まぁ、ちょっと言いたくないんですけども、この人は科学者じゃありません。ま、「政権に擦り寄る人」という風に言っても良いんですね。





スターリン時代のソ連でですね、実は「ルイセンコ学派」つうのがあったんですが、「共産主義のもとで穀類を育てると、野菜とか穀類がよく育つ」って言うんですね。まあ、普通には馬鹿らしい議論なわけですよ。だけど当時のソ連の世界を支配しました。暗い社会、独裁的な社会はこういうのなるんですね、今の日本と同じですが。





もちろん科学は「何が正しいか分からない」ので、共産主義のもとで育てれば植物の生育が早いということが起こっても良いんですけどね、こういった非常にこう画期的な結論出すには慎重な研究が必要で、ちょっと一個か二個の論文があったから「そうだ」ってわけじゃないんですね。ま、もちろんルイセンコ学派の場合は「お金が貰えるから、名誉が得られるから」っていうことなんですが。科学っていうのは「共産主義のもとで育てれば植物がよく育つ」つっても、「ああ、そうですか」って言う余裕は必要なんですね。





私、これで思い出すのは、「石けん・洗剤論争」っていうのあったんですよ。何か「石けんは良いけど、洗剤は環境を汚す」つうのがあったんですね。で、私は実はこれを調べようとしてですね、まず第一に200ぐらいの論文読みました。つまり、1編、2編はですね、ダメなんですね。論文というのは常に正しい事が書いてあるわけじゃないんです。「こういう実験をしたら、こうだった」ということが書いてあるのが普通なんですね。





しかしですね、この論文の中で40ばかりがですね、「洗剤が環境を汚す」と書いてあるわけですが、他の160はまったく違う結果なんです。それで、これをずーっと読んでみますとですね、この40の論文には特徴があってですね、もうあの「洗剤は環境を汚染する」という実験の組み立てになってるんですね。例えば、洗剤を過剰に使うとか、非常に何か洗剤のようなものに弱い動物を使うとか、石けんと比較しないとか、何かそういうですね、変な論文だったですね。“あぁ、これはやっぱ違うなぁ”と思いましたね。





それからもう一つは、そういう論文にはですね、データばかりでなくて、その論文を書いた著者ですね、普通は学者の考えが書いてあるんですよ。もちろん新しい発見っていうのは速やかには説明できませんけども、例えば石けんと洗剤の場合はですね、「同じ界面活性剤でどうして違いがあるのか?」・・・ま、界面活性剤の性能はHLB値(水と油への親和性の程度を表す値)とか色んなものが知られておりまして、そういうものをきちっと比較するっていうですね、そういうプロセスが要るんですね。





この被曝の場合もそうですけども、「実験データ」と「科学的原理原則」の関係も当たらなきゃいけないわけですね。例えば、あのよく皆さんはですね、被曝したら体が傷(いた)むかどうかって、これにはずいぶん距離があるんですよ。被曝するということと、体に健康に害があるというのは、その間にいっぱいあるんですね。例えば、エネルギーの高い電磁波、これは「放射線」ですけど、それと「人体」つまり高分子物質との相互関係とかですね、修復作用だとか、もう山ほどあるんですね。





ですから、被曝と健康という問題を考えるときは、そういう基礎的な学問的知見、中間的学問の知見、実験動物の結果、それから人間の結果っていうのを全部総合して考えなきゃいけないわけです。ですからですね、この「科学の心っていうのはどういうものか?」って言いますとですね、洗剤の問題もそうですし、低線量被曝と健康の問題もそうなんですが、非常に慎重なんですよ、結論が慎重なんですね。そうすると、結論が慎重だから「危険側」に重点を置かなきゃいけないんです。





ところが、その危険側にはもう一つありましてね、「石けんと洗剤」っつうのはですね、両方とも同じ物なんですよ、界面活性剤。だから、両方とも量を減らすという手段があるんですね。それで、「両方とも量を減らして同じ洗浄力にすると(環境への影響は)同じ」なんですよ、だから「危険側」っていうのも存在しなかったんです、最初っから存在しないもんだったんですね。これは錯覚によって、洗剤が危険だということになったっていうだけのもんなんですね。





これはあの、原理原則を考えないで、もうそれで判っちゃったもんですね。つまり石けんと洗剤ですと、「洗剤の方が使い過ぎるので、環境に影響がある。洗剤と同じだけの洗浄力を持つように石鹸を使えば、同じように環境を汚す」ということですからね、これは問題がないんですよ。





ところで、「低線量被曝と健康」の関係は全然違うんですね。「安全だ」というのと「危ない」というのがあるわけです。で、こういったですね、同じものに合わせればどうだということができない場合ですね、この場合科学はですね、非常に謙虚で、判らなければ「安全側」にということなんですね。これはですね、科学というものが間違えるということを知った、謙虚な態度なんですね。科学はですね、一つのデータが出たからつって、それを信用するようなことはしません。もう少し「科学の心」は謙虚であります。





もう一つ、この問題で非常に私は残念なのは、日本にいる科学者がですね、一般の人を騙すってことですね。専門家はですね、一般の人を騙すのはらくらく出来るんですよ、簡単なんです。だけども、専門家には「専門家の倫理」がありましてね、やっぱり“ルイセンコ”になっちゃいけない。やっぱりその、学問は難しいんだ、科学は難しいんだという意味からですね、科学者が大体一致できるところまでいく前はですね、一般の人には慎重な行動を呼び掛ける、と。これが大切ですね。





ま、相当程度判ってきたら、言っても良いかなと思いますね。たとえば私が言ってるダイオキシンなんかそうですが、最初は判んなかったので、私も慎重に書いておりました。しかし、2001年になると200の論文のうち、ほとんど199は「ほとんど無毒である」というような結論になったわけですね。その時点ではやっぱり社会にですね、「あまり影響は無いんじゃないか」と言うことができるんですね。それは、まぁ私に言わせれば、200の論文のうち、195ぐらいが同じになるというぐらいのレベルだと思いますね。





異論が多いときには、やっぱりそれを「安全だ」と言うことはできない、これが謙虚な意味での「科学の心」であるということを是非お話したい。そうしないと、科学がこれから誤解されましてね、この頃「科学を大切にする子供の教育」なんて言ってますけども、単にあっと驚く科学的実験をするんじゃないんですよ。やっぱり科学の心って言うのは謙虚な心、それをですね、子供たちに教えていかなきゃいけないと、こう思います。


(文字起こし by danielle)