原発事故を混乱させたもの(2) 危険の確率と約束事 (4/1)
原発事故の直後、福島に入った山下医師が「1年100ミリまで被曝しても1000人に5人しかがんで死なないから心配はない。むしろ病気になるのではないかというストレスの方が問題だ」と発言しました。
この発言は医師という社会的な影響の大きな人であること、後に福島県の役職に就くことなどを考慮すると医師としての倫理を大きく逸脱しているので、山下医師は早く医師の免許を返還しなければならないと思いますが、そのことはまた別の機会に整理をします。
ここでは、「危険の確率」と「社会的な約束」について整理をして、原発事故以来、混乱を招いていることをはっきりさせて、これ以上の被曝を避けるための武器にしたいと思います。
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被曝と病気の関係ばかりではなく、この世のもので多くの人やものが関係していると「統計的に起こる」ということがあります。道路で制限速度が時速50キロの場所でも100キロで走っても「必ず事故が起こる」という訳ではありません。
2回に1回、つまり確率50%で起こると言うことも普通にはなく、1%か2%ぐらいが普通です。でも、それは現代の日本では「あまりに交通事故が多い」と言うことになるので、時速が50キロに制限されていると言うことです。
つまり、少し数学的なグラフになりますが、多くのものはこのグラフのように何かが起こる確率が山のようになっています。山の形を「正規分布」とかいろいろな名前がついていて、それが起こることの性質に関係しています。でも原理は変わりませんから、まずは「物事は確率的に起こることが多いのだな」と理解しておいてください。
ところで人が「危険」と感じるのはどのぐらいの確率の時でしょうか? これは時代、場所、またそのときの社会の状態によって変わります。昔は寿命が短かったので、危険と隣り合わせの生活でした。また戦争が起こると急に「普段の危険が安全に感じられる」と言うこともあります。
また人間は「自分で好んでする」と言うときや「自分の得になる」という場合には危険を危険と感じないという自己中心的なところがあり、それでもかなりの差があります。
現代の日本では交通事故が標準的で、「自動車が走ることは自分の得になるが、自分は運転しない」という状態の時に交通事故死が1万人を超えると「大変だ!交通戦争だ」と社会では大騒ぎになり、何とか交通事故を減らそうとします。
原発の場合、「原発から電気をもらうけれど、自分は原発から給料をもらっている訳ではない」ということが普通ですし、自動車がなければ社会はかなり困りますが、原発がなくても石油や石炭を燃やせば電気ができるので、代換えがあります。
このような時に原発によってどのぐらいの被害までは「大したことはない」と感じるかですが、おおよそ交通事故の10分の1ぐらいでしょう。というのは、これまでの研究で、意思のありなし、得の大きさで最大1000倍ぐらいの差があると言う結果が得られているからです。
そうすると原発による被曝がもとでがんで死ぬ人は、交通事故(1万人に1人)の10分の1とすると年間1000人ということになります。人によってはそれでも多いように感じるでしょう。確かに、福島原発事故の前には原子力安全委員会は「1年に150人まで」としていました。
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これらのことと、山下医師が言った1000人に5人だから大したことはないとの発言と比較すると、日本社会が認める危険性は1億人で150人から1000人ぐらい、山下医師はそれを1億人で50万人までOKと言ったのです。現在でも福島県は1億人に50万人までOKと言うことを元にしていますから、日本の社会が全く認めないような状態のところに人が生活しているのです。
ちなみに日本の法律(1年1ミリ)はその100分の1ですから、1億人で5000人まで認めているということになリます。これが少し大きめの数字になっているのは、交通事故は日本人にとって一生同じような状態が続くのですが、原発事故ではある時期に限定されるなどの条件が少し違うからです。
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マスコミもこの「統計的な現象」をよく理解せずに報道しています。たとえば東京でかなり高い線量の場所が見つかったとき、そこに住んでいた人が元気だったので「かなり高い被曝を受けても元気だ」と報道しました。
しかし、時速50キロ制限の道路を高速で走っても「事故を起こさない人が大半」であることからもわかるように、「1年100ミリ浴びても1000人で995人は無事」なのですから、「被曝しても大丈夫な人がいた」と言うことと「1年100ミリの被曝を受けても大丈夫」と言うこととは全く違うのです。
さらに、「被曝よりストレスの方が危険」という比較は許されていません。というのは、「高速道路を制限速度で走ると、いらいらしてその方が体に悪いから、スピード違反してもよい」とか、「たまにはお酒を飲んで運転するぐらいの方が健康によい」などという論理はないからです。
いずれにしても、原発事故が起こってから多くの人が東電をかばい(強いものに応援する)、大したことはないを連発しましたが、確率的におこることをよく理解して、感情的・衝動的に記事を書いたり、報道したり、まして社会の指導者が安全な日本の伝統を崩さないようにしてほしいと思います。
(平成24年4月1日)
--------ここから音声内容--------
この原発事故が起こってですね、えー、福島に入った山下医師が「1年100ミリまで被曝しても、1000人に5人しかガンで死なないんだから大丈夫だ」と、「むしろ病気になるのではないかというストレスの方が問題だ」と発言しました。えー、これによって、福島の人は相当量の被曝をすることになりました。えー、医師として社会的な影響の大きな人である、と。あー、更に、福島県の役職に就いたり、えー、福島医大の副学長にご就任されたと思いますが、えー、山下医師は日本の法律の体系をご存じなかったという点で、医師の免許を返還しなければならないと思いますが、これについては別の機会に整理をしたい、と。
ま、ここではですね、えー、「危険の確率」というものとか「社会的な約束」というそういった点からですね、えー、問題を整理して、これ以上の被曝をできるだけ低くしたいと、ま、いうふうに、えー、思っとります。ええとですね、ま、その話をまず進めていきますが。
えー、被曝と病気の関係ばかりでなくて、「統計的に起こる」ってことありますね。我々の日常生活では、えー、「天気予報」なんていうのがその例でありますが。えー、こういったものはですね、実は必ず起こるというようなものを相手にしてるわけではありません。
例えば、道路で制限速度が時速50キロという場所で100キロが走っても、「必ず事故が起こる」ということではないんですね。まぁ、こんなのは分かりきってるわけです。ま、2回に1回も起こりません。ま、大体100回に1回とか50回に1回ぐらい、つまり1%とか2%が普通なわけですね。でもそんなことですと、100人に1人とかですね、100人に2人というと、もうあまりに交通事故が多いってことになるので、ま、それではいけないってことで、ま、ほぼ安全ということで、ま、時速が50キロに制限されてるわけです。
ま、ちょっと直接的なグラフではないんですが、ま、このように山形のグラフってのがあるんですが、ま、これ確率を示すグラフなわけですね。この場合、「正規分布」と言われる形なんですが、ま、それは色々な分布があるわけです。どれでも、ま、結局同じで「物事は確率的に起こることが多い」と、ま、いうふうに理解しておいていただければいいと思います。
朝ごはん食べるのもですね、目玉焼きが何人とかですね、ええと、お味噌汁とご飯がいくらとかですね、ま、そういったですね、割合で起こる、とまぁいうことですね。
で、まぁそういうことについての安全について、ま、どのぐらいで人間っていうのは「危険だ」と思うか?と。これはあの、時代が違い、場所が違い、また社会の状態によって違うわけです。昔は非常に寿命が短かったし、とにかく危険が隣り合わせにありましたからね。ですからあの、そういう点ではですね、とてもあの…まあ、危ない時代だったわけで、そういう点ではですね、ええとあの、危険性は今と比べれば、はるかに高いところに標準が置かれてたわけですね。
戦争が非常に有名なんですけども、戦争が起こると、その戦争ちょっと前の状態よりか格段にですね、「安全に感じられるようになるんですよ、同じ危険が」。とにかく周りでばたばた死にますからね、そういう相対的なもので・・・なるわけですね。
それからその他に、まぁ私もまぁタバコのことでちょっと(音声不明瞭)けれども。人間はですね、やっぱり自己中心的ですから、「自分で好んでする」と言うときとか、ま、「自分の得になる」っていう場合は、危険が少なく感じられるのが普通ですね。
例えば、まぁ経団連の人が「電気が欲しいので、原発を再開したい」と言い、お母さんが「子供の健康が心配なんで、原発はやめた方がいい」と言うことは、非常に納得性があるんですね。もしかすっと、同じ確率で事故が起こると思ったのかもしれないんですね。ただ、自分で好んでするとか自分に得のあるかどうか、そういうことによってですね、人間っていうのは同じことでもずいぶん違って感じられるわけです。
しかし、それではまぁ社会的にはいけないので、ま、交通事故がその標準的なんですけども。ま、自動車が走ることは、ま、自分の得になる、ま、つまり、えー、得になるっつってもですね、あの変だといえば変なんですけども。ま、そうは言ってもですね、えー、自動車が無いと宅急便も配達してくれませんし、食料も配達してくれないのでちょっと困るわけですね。ですから、ま、しょうがないやということで、大体交通事故死っていうのは1万人を超えますとね、ま、「大変だ!」っていう騒ぎになります。ちょうど人口が1億人ですから、ま、1万分の1ということになりますね。
えー、原発の場合もですね、「原発から電気貰うからしょうがないや」と、ま、いうことなんですが。えー、原発には、まぁ火力発電所が代わりになるとか色々なことがあるので、どのくらいかなということは難しいんですが、大体およそ交通事故の10分の1ぐらいなんでしょうね。というのは今までですね、“意思あり、意思なし”、“得が大きい、得が小さい”っていうんで、大体1000倍ぐらい差というふうに言われてますので、それほど大きな差はないから、ま、ここで10分の1としますね。
そうしますと、えー、交通事故が1万人に1人じゃ大騒ぎということを考えますと、大体年間1000人ということですね。えー、もっとも安全委員会は、それを更に「安全をみて150人まで」としておりました。今の安全委員会はそれをウソついてますけども、それはちゃんと書類に残っております。
えー、ところで山下医師の言った「1000人に5人」というのはどういうことかって言いますと、日本社会が被曝で認めてる危険性は1億人で150人から1000人ぐらいなんですね。えー、山下医師はそれを1億人で50万人までOKと言ったわけですね。えー、まぁ今の福島の人たちも、そういう社会に住んでるわけですが。ほんとにそれは、そんなこと個人で言えるのか?と、ま、いうことになりますね。
ええと日本の法律は、まぁ100分の1ですから、1億人で5000人まで認めてるということになります。えー、ちょっとこれが大きめですけども、これはあの、交通事故っていうのは日本人にとって一生同じような状態が続くんです。原発事故は、ま、一生続く人もいるんですね、あの、ま、半減期の長いところにずっと住んでる人はそうなっちゃうんですが。一般的にはそうではないんで、少し高めだということが言えます。
もう一つの私がこれを書きたいと思った原因は、マスコミの報道なんですよ。えーまぁ、マスコミの人は文科系だからしょうがないのかなと思ったりしますとね、あるときに文科系の人にですね、「武田先生はすぐ文科系はこうだ、って決め付けるけど」って言われて、その通りなんですが、それじゃいけないわけですけどね。
えー、東京の世田谷でですね、非常に高い線量のところが見つかって、そのところに住んでた人、元気だったわけですね。これをマスコミがですね、「かなり高い線量のとこ受けても、元気だった」と言って、「大丈夫だ」と言ったわけですね。これはもう、まったくダメなんですね。これをちょっと言おうと思って、そいでこういうこと言う人がいたら、ぜひ反撃して下さい。
つまり、時速50キロの制限の道路走ってですね、「事故を起こさない人がいるから違反しても良い」とかですね、「1年100ミリ浴びても、1000人で995人は無事なんだからいいじゃないか」なんて言うとですね、これ全部、議論が覆(くつがえ)っちゃうんですよ。そうすっと、もう交通事故はですね、「1年間に100万人死んだっていいじゃないか」って、そうはいかないんです。もうそんなったら、もうお葬式ばっかやってなきゃいけないんですね。そういうふうになるわけですね。
それからもう一つの問題。もちろんこれは、まぁ言うまでもないと思いますが、「被曝よりストレスの方が危険」なんていうような比較は、これは全然許されてないんです。学問的じゃないんです、第一。えー、「高速道路を制限速度で走ると、いらいらするから体に悪い」とかですね、「たまにはお酒を飲んで運転するぐらいの方が健康に良い」とか、こんなやつは全部ダメなんですね。
つまり、もちろん色々なことは他の色々な…ほかのことを伴うんですけども、えー、問題になってるそのことだけを、まずきちっと議論をするということが必要で、それを他のものを持ち出すとですね、議論が曖昧になってしまって、今度みたいに「いくら被曝してもいい。ガンで死んだっていいじゃないか」、「元々その人は、ストレスでガンで死ぬ予定だったんだから」なんていうですね、極めて乱暴な議論になってしまうっていうことですね。
えー、多くの人が東電をかばっております。えー、これもこの前、文科系の人が…非常に偉い人なんですけど、「何故、武田さん、あの、みんな東電をかばってるんでしょうかね?かばい過ぎじゃないですかね?」と彼でも言っておりました、ほんとにそうですね。えー、今、新聞記者の方がよく感情的・衝動的な記事を書きます。例えば、「福島を助ける」とか、なんかそういうようなこと言っておりますが、えー、どうでしょうかね?
えー、もう少し冷静になって近代国家としての日本、そこでの記事を特に書いたり報道したりですね、または公務員の方で社会の指導的立場にある人はですね、えー、もう一つ深く考えて、色々なものを発言されるときに注意をして発言されたらいいんじゃないかと思います。えー、法律で1年1ミリシーベルトと決まってるには、それなりの経験、学問というのが背景にあるんだということですね。それは人によって自由に・・・学問の自由とこれ全然別ですからね、学問は全然自由なんですが。えー、学問の自由とか言論の自由とはちょっと違うんだと、ま、いうことですね。
あの、これはあの、「酔っぱらい運転をして良い」という発言は、無制限にはできないってことですね。ある特定の場所だとか、いろんな注釈を付けてやるのは構わないんですけども、えー、それをおおっぴらに新聞などを使って、広報するという形での言論の自由っつうのは、かなり考えなきゃいけないということも指摘したいと思います。
(文字起こし by danielle)