知の侮辱(5)・・・被曝:現代人の知恵の彼岸 (2/6)
最近の原発の事故に関係することで、もっとも大きな「知の侮辱」は「被曝と健康の関係が学問的に判っている」という「学者」が多かったことです。学問というのはそれを専門とする人がデータや理論で論理的に納得し、定説となったものをくみ上げて作るものですから、ある学者は1年0.1ミリ(ドイツの学者が中心)、ある学者が1年100ミリと1000倍の違いがあって、学問とは言えないのです。
学問と言えない段階のものは、学問的には不明と言うのが学問です。学問は、社会の利害、自分の思想、反原発派が憎らしい、神経質な人がいる・・・などと言うこととは全く無関係で、学問的に被曝と健康の関係が判っていれば明確に答え、判っていなければ判らないと答えるものだからです。
放射線が外部から体を貫くと、たまには遺伝子や体の重要な部分を損傷する可能性があります。また放射線が活性酸素を作り出し、それが体のどこかを酸化する可能性があります。さらにはヨウ素やセシウム、ストロンチウムが体の一部に蓄積し、それが病気の引き金を引く場合もあります。
自然放射線は1年1.5ミリですが、それに何ミリぐらいが加算されると健康にどんな害があるか、カリウムには放射性を出す物もありますが、それとセシウムが入った牛肉とを単にベクレルで比較できるのか?そんなことは学問的には判っていません。研究例があり、調査結果があるに過ぎず、それは相互に大きく異なった結果を与えているからです。
このような場合、「環境を守る」という点では世界での合意があります。この合意は水俣病などの辛い経験をもとに人類が築き上げてきたもので、それを「予防原則」
と言います。予防原則はそれ自体が学問と言えるものですが、「科学的に判らないが、危険の可能性もある場合、社会的合意によって規制することができる」というもので、論理的には立派な学問的成果です。
被曝と健康の関係は学問的に判っていないのですから、社会的に必要なら予防原則で規制するわけで、それが「1年1ミリ」です。もちろん、1年1ミリでも「膨大な実験データと調査結果」に基づいて「詳細な被曝計算」をするのですが、実はそれらは「学問」ではなく、「技術」に属することなのです。
つまり、1年0.1ミリまで安全という学者のグループと、1年100ミリまで安全というグループがいるのですから、当然、学問として結論が出ていないのですが、たとえば、それらのデータの平均値を取るとか、安全側を採用するなど、一応のデータに基づくことはできるのです。
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科学が社会の信用を得るためには、科学者の発言が信用できるものでなければなりません。それは若干、慎重なことになるかも知れず、生産現場や医療現場はそんなことは言ってられないと思いますが、それは現場に限ることで、現場でもないところに非科学的なことをそのまま伝えるのは誤解を招く原因になります。
現在、被曝を心配している一般の人に対して、原子力や放射線の学者は次のように言わなければならないでしょう。
「残念ながら多くの学説はありますが、まだ学問の段階には至っていないので、どのぐらい被曝したらどうなるということは判っていないのです。そこで、社会的には予防原則を採用して「外部被曝と内部被曝の合計が1年1ミリ」を被曝限度としています。それが現在の人間の限界で、日本の法律もすべてこの基準を適応していますし、それから食品や土壌などの1キロ何ベクレルという基準も作っています。」
学問は圧倒的な数のデータがあり、再現性があれば「相関関係(何かの変数を変えると結果が変わる)」だけでも、なんとか学問になることがありますが、普通は「相関関係」だけではなく、その関係が何らかの科学的な「因果関係(原因と結果が論理的に明確であること)」を持たなければなりません。
その意味で、被曝と健康の問題は私たちの現在の学問が及ばざるところで、まだ「彼岸」にあると言えるでしょう。私が原子力委員会の研究開発部会で原子力の安全研究を促進するように進言したのはこの様な認識だったからです。
「なんだか判らないけれど、このような傾向だ」というのはまったく学問ではないので、「どのぐらい被曝したら、患者さんがこの程度でた」というデータはあまり役に立たないのです。このことを温暖化の時、「CO2が増加すると気温が高くなる」という科学者が多かったので、それなら「武田の年齢が増加すると気温は高くなっているのですが」と冷やかしたことがあります。
今度の福島の事故で、私は多くの方が学問とはどういうものか、なにが科学的でなにが非科学的かということを考えていただいたのはとても良かったと思っています。でも、学問的な結論もないのに「大丈夫」などと言い、5歳の子供が大人を信じて被曝して15歳で発病したら私たちはどうしてそれを償うことができるのでしょうか? 私たちは判らないのですから、謙虚で慎重でなければなりません。子供は私たちを信じているのです。
(平成24年2月6日)
--------ここから音声内容--------
この「知の侮辱」でですね、まぁやっぱり一番の、最近の
問題はやっぱり「被曝」ですよね。「被曝と健康」ちゅう問題ですね。えー、これの一番の大きな「知の侮辱」はですね、「被曝と健康の関係が判ってる」と、まぁいうふうに多くの「学者」が発言されることですね。えー、学問っていうのは、そんなに簡単なものではないわけです。ある、まぁ医師ですから、先ほども言いましたかね、この前。「福島に行って少し診察したら、まだ障害者がいなかったから大丈夫」と。一体何をおっしゃってんですか?ってな感じですね。もう医者という、医師という、学問に基づく職業を止めてくださいと、言いたくなっちゃうんですね。
ある学者は0.1ミリまでが、それでも危ないとドイツの学者を中心に言っとりますし、ある学者は1年100ミリといっておられて、1000倍の差があるわけですから。これはですね、データか認識か、何かに大きな問題があるということで、全然判ってないっていうことですね。判ってないことをですね、どうも学問的な感じに言う人がいるんですよ。「大丈夫なデータがある」とかですね、こういうふうに言う人がいるんですね。そうすると、世の中の人は全ての人が、学問とはこういうもんだとかですね、よくそのもちろん分かっておられないわけですから、“そうかなぁ“と思ってしまうんですね。ところが、その人のほんとの気持ちは、利害関係だったり、自分の思想だったりですね、原爆を持ちたいと思ってたりですね、反原発が憎らしいとかですね、そんな神経質なこと言ってるって言えばかっこいいだとかですね、そういうことでお答えになることが多いんですよ。
えー、放射線が外部から体を貫くと・・・ま、もちろん、どうしてこれが判らないことなのかって言うとですね、あまりにものごとが複雑なわけですね。放射線が外部から体を貫くとですね、必ずしもその遺伝子をやっつけるわけではないですけど、たまにはこう、遺伝子にぶつかるんですよ。そしたらやっぱりエネルギー高いですから、これは欠けちゃうんですね。まぁラジカルになるとか、いろんなこと言うんですけど。そのほかの体の重要な部分を損傷する可能性もあるんです。また、まぁ活性酸素が問題だって言う方もいて、それはもうそうなんですね。酸素にぶつかれば活性酸素ができる、その酸素がまた体のどこかを酸化したりして悪くなる。また、ヨウ素とかセシウムとかストロンチウムっていうのは、またこれは体のどっかに溜まっちゃうわけですね。
で、「自然に放射線があるじゃないか」、これまた変な話なんですね。「1年に1.5ミリあるじゃないか」と、それはそうですよ。で、まぁ例えば福島原発から1.5ミリ出たとしますよ。そしたら自然放射線が無くなってくれれば1.5ミリですけど、自然放射線はそのままありますからね、合計3ミリになります。それがどうだってことも判っておりません。それから、「カリウムがあるじゃないか」と。バナナ食べればカリウム入ってくると言いますけどですね、カリウムとセシウム入りの牛肉と食べたときに、体に対して、溜まるところも違うし影響も全然違うんですね。研究結果はある程度ありますが、それはまぁ、途中経過に過ぎないんですね。
で、ま、もちろん人間のやることは、こういった「途中経過」になることがあるんですよ。しかしそのときにも、社会的に何かしなきゃなんないことあるんですね。大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか、ということを決めて進まないと、世の中が進めないことがあるんです。そん時はちゃんと、それの学問が用意されてるんです。こっちは学問ですね、それは「予防原則」なんです。
予防原則っていうのは、非常にハッキリしておりまして。「科学的には判らないけれども危険の可能性があれば、社会的合意によって規制することができる」っていう概念ですね。これはもうしっかりしてて、多くの水俣病などの辛い経験を経てですね、我々が学問として確立してきたと思うんですね。
で、この現在、被曝については全く判らない。えー、0.1ミリから100ミリ、ま、20ミリって言ってもいいですね。それをどこの辺に決めたら大体の人を守れるか、というのが「1年1ミリ」であります。1年1ミリはえいやっ!って決めたわけじゃなくて、まぁ「膨大な実験データとか調査結果」、それからそれに基づく「詳細な被曝計算」。これ機会があったら、このブログにも出そうと思うんですけど、出したら皆が“へぇ、こんなに根拠があるのか”と言いますね。だけど、それでもまだ我々はハッキリは判らないんですね。現場処理技術という感じですね。まぁ、やや安全側を取るわけです。この安全側を取るっていうのは当然でですね、5歳の子どもが被曝して15歳でガンになったり免疫不全になったり、いろんな病気になったら困るわけですね。ですから、こういう場合はやや安全側を取るのは、これは当たり前なんですよ。
一か八か、なんてことは出来ません。えー、そういうことを言う人もいますけど。一か八か当たったって大したことないよつって、当たって病気になったつったらですね、人生残り少ない人はそれでもまぁ・・・それでもいけないですけどね。これからの人生で15歳になった人つったら、やっぱりそれは可哀想なんですよ、ええ。これはあの、例えば生産現場とか医療現場ではですね、ある程度判らないことでも、えいやっ!つって、やることがあるわけですけどね。それは、やっぱり皆に了解とって、説明をしてやるっていうことですね。しかし、社会全体が相手になるようなときは、そういう非科学的なことはできません。
私はですね、現在でも無責任なことを言ってる学者の方がおられるんですが、是非この際、気を変えていただいてですね、次のように言ってもらいたいと思ってます。「被曝と健康については、残念ながら多くの学説はありますけども学問の段階には至ってないので、どのくらい被曝したらどうなるかっていうことは明確に判っていないのです」と。「そこで、こういう場合に適応される予防原則を採用して、内部被曝と外部被曝の合計が1年1ミリということで被曝限度としてます」と、「これが人間の限界であります。神様じゃなければそれしか判りませんので、日本の法律も全てこの基準を適応しております」と。
ま、このことを政府は知らなかったかどうか判りませんが。マスメディアとか、まぁあまり勉強してない学者が最初の頃、違うことを言ったんで、引き返しにくいってことあるけれども、例えば土壌とか食品の1キロ何ベクレルっていうのも全部、1年1ミリを基準に作ってるわけですね。ですから、それを今また思い出すっていうことが必要でしょう。
ええと、まぁ学問っていうのはですね。何と何と関係があるっていうだけじゃダメなんですよ。被曝したら病気がどのくらい出るとか、このくらい被曝しても病気が出ない、っていうことだけじゃダメなんですね。これをま、「相関関係」って言うんですけど。それ以外に、これこれこういう事情で起こったっていうことが、判んなきゃいけないんですね。
ところが、先ほどちょっとお話したように、放射線と人間の体の関係、非常に複雑なんですよ。ですからもう到底ですね、まだ今の学問じゃ判らない。これを私はこのブログで「彼岸」と書きましたけども、“まだまだ彼岸なんだ”ということですね。私は原子力委員会の研究開発部会でですね、原子力の安全研究を促進するようにということで、提言したことありますが。ええまぁ、多くの方は「もう、そんなことは終わってるよ」っていうご判断でしたけどね。ま、今後ですね、これがもっときちっと進むまで、我々は予防原則の下で行かなきゃいけないと思います。
えー、福島原発のことでですね、良い面もありました。それは、学問的なこと、科学的なことを皆がよく考えたってことも大切ですが、しかし学問的な結論もまだ出てないのに「大丈夫」と言ってですね、5歳の子どもが大人を信じて被曝してるわけですから。15歳で発病したらですね、それは我々人間はね、あがなうことは出来ませんですよ、それは。それがいわば学問というものの大切さ、なんですね。そういう謙虚で慎重な態度を、学者の方もしくは学問をベースにしてお仕事をされてる人に、望みたいと思います。
(文字起こし by danielle)