2011現代倫理論5 個人の批判、誹謗のルール・・・バッシングを私はどう感じたか?(12/30) | お手伝いさんたちのブログ

お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

2011現代倫理論5 個人の批判、誹謗のルール・・・バッシングを私はどう感じたか?(12/30)



今回の原発で私自身もバッシングを受けました。でも、それはまったく問題がありません。なぜなら私の活動の目的は「いかにして子供たちの被曝を減らすか」ということであり、私の立場、名誉などはそれに比べれば小さいものだからです。私はすでに人生の大半を終えた人間ですが、子供はこれから60年、70年ある日本人なのです。私たちはできるだけ正直に、熱心に議論を重ね、どうしたら子供たちを被曝から守ることができるかに知恵を尽くさなければならないからです。その点で、特に2人の方の例を挙げて、個人の誹謗がなんの役にも立たないこと、それは倫理に悖る行為であることを指摘し、来年には誠意、礼儀を守り、実りのある議論になるようにしたいと思います。

(平成23年12月30日(金)


--------ここから音声内容--------



えーと、今年はですね、私個人も大変にバッシングを多く受けましてですね。ま、あの、いろんなことがありました。しかし私はそれほどそれが気になんなかったのは、やっぱり私の行動の目的がですね、いかにして子供たちを被曝から守るかということですから。ま、それに対して、反論とかいうのはもう全然いいですし、私自身をバッシングしたところでですね、子供たちの被曝にはなんら関係がないわけですよね。






その意味では、あぁ、まぁそんな非難もあるわ、というふうな感じだったわけですね。子供たちっていうのは、今から60年、70年ありますから、それは大きなことなんですよね。どうしたら正直に、もしくは熱心に議論を重ねて、子供たちを被曝から守るかってことに対しては重要なんですけどね。武田個人を批判しても、全然そんなことはほとんど役に立たないわけですね。





特に、今年はお二人の人がおられました。二人とも言論界で活動してる方で、一人は週刊誌に私の批判をかなり強く言った人ですね。この人は言い方としては「喋り過ぎる」ということなんですね。「喋る人は信用できない」という、それが基本でした。






山形県にはそういう言い伝えがあるらしくてですね。黙ってる人は信頼を置けるけれども、しゃべる人は信頼を置けないという、これは日本の昔のね、まぁ世界的にそうですけど、「雄弁は銀、沈黙は金」というようにですね。ま、黙ってる方がいい、っていうことはあるんですね。






ただ現代ではですね、黙ってて本当に良いか?って問題あるわけですね。私が色々活動した原発とはどういうものかとか、放射性物質はどういうふうに流れてくるから、どっちに逃げなきゃいけないとか。それから被曝を避けるためには具体的にどうしたらいいかというようなことはですね、やっぱり言論を持ってしか、言葉を持ってしか伝えられませんからね。





ですから、「黙ってる方がいい」「お前は黙れ」とこう言われるとですね、ちょっとどうかなというふうに思いましたね。しかもその人は元々、言論を商売というかお仕事として活躍してる方なんですね。週刊誌に毎週、やはりお話になってるわけですよ。ま、書いてるわけですね。
だからその人自身が非常に雄弁なわけですね。





で、自分が雄弁で、人の雄弁を批判するっていうのはあまりよくないんですね。やっぱり1人の人の言うことは統一しなければいけません。それから、私はその人にあえて反論しませんでした。それは二つの理由ですね。
一つは私の人格とかですね、というものを批判しても私がすぐ人格が変わるっていうわけでもないし、黙れって言われても、黙るわけにもいかないので、反論の仕様がないんですよね。






それからもう一つはですね。このことをちょっと弁護士さんに聞いたらですね、「いや、もうそういう人はトラブルを起こすのが商売だから、相手にすればするほど泥沼に入るよ」と、こう言われてですね。確かにそうかなと、ま、いう気がしましたですね。私はその人とお会いしたこともないんですよ。話したこともないんでね。





そういえば、私が今日言うお二人とは違うんですが、よくこういうこと言われることあるんですよ。「武田先生の書いたものは読んだことないが、ブログは見たことが無いけども、大変にけしからん」と。こういうふうに言われるとですね、これもちょっとですね、どう言っていいか分かんないわけですね。






まぁやっぱり人を批判するときは、よくその人の言ってることを聞いて、また自分を批判してるときはいいんですね。例えば自分を批判したら、反撃してもいいんですけど、全然批判した方なんて、私は何も言ってないんですね。それなのに批判してくるっていうのは、よっぽどの理由がなきゃいけませんからね。それなりにお調べになり、よく読んで、そして批判する、って言うのがルールじゃないかと思うんですね。






もう一人の方もですね、何かの目的があるんじゃないかと思うんですね、私を批判する…ま、表面上は「危険を煽っちゃいけないよ」とこう言われてるわけですけども。
ま、危険を煽るか煽らないかということを含めて、私が言ってるのは、1年1ミリと国際基準もそうなってるし、
法律もそうなってるし、今まで官庁は何回も何回も「1年1ミリシーベルト」という通達を出してますんでね。





ま、やっぱりひとつの法治国家として、1年1ミリを守るか、それともそれが守れないなら、それを変えるだけの理由を言わなきゃなんない。今まではですね、1年1ミリシーベルトを越えるとき、どうしても事故のときにそれを越えなきゃいけないときに、それは千年から一万年に一回ぐらいしかいけない、ということを言ってるわけですから、今度みたいに震度6、もしくはそれに津波が加わったと、いうぐらいでですね、事故が起こる、また、原子力発電所を動かしてから20年~30年しか経ってないのに、事故が起こる、こういう状態で本当に1年5ミリに上げる。それも5ミリが最高だと言ってたわけですね。
それを上げられるってことができるか?、ということについて私に対して反論をしていただく。






従って、問題ではない、と言うんなら分かるんですけども、そうではなくて、単にですね、個人を誹謗するってことは、あまり前向きではないと思います。ま、今年はそういうことが色々ありましたけども、日本社会というのがですね、村八分だとか、個人批判、もしくは誹謗ということではなくですね、もう少し誠意があり、礼儀を守り、そして実りある議論になるようにしたいというふうに思いますね。






特に日本は、大変に礼儀正しい国でした。礼儀正しい国って言うのはどういうことかといいますと、相手の意見にいくら反対しても、紳士的な態度を崩さずに、闇でバッシングするような・・・それからやっぱり私は思うんですけども、“その本人に何回もお話をしても、自分に被害が及ぶ行動を止めてくれない、しかも裁判とかそういうのに訴えられない。しょうがないから、言論界で批判をする”っていうのはいいんだと思うんですけどね。





面と向かっては言う勇気がないから、何か本人がよく見えないところでやる、っていうのはちょっとですね。
やはりこの日本の美しい文化に反することではないか? やっぱり武士であれば、自分がその人を批判したければ、批判する前にですね、予約を取って会って、
なぜあなたはこういうことを言っておられるんですか?と聞いて、そしてそれから批判をする、というのが個人の場合は必要でしょうね。





私はこういう主義なんですよ。まず自分の所属している国だとか自治体、もしくは自分の・・・まぁ大学っていうのは私の場合、就職先ですけど、それから受信料を払っているNHK。こういうものはですね、ま、内輪ですから批判していい、と。それから、とんでもなく高い地位の人、例えば首相とか大臣、それからそれに類する人。
私は東大教授とか、そういうNHK会長とか、そういったですね、個人というにはもっと大きな人。それから自分と比べると格段に力のある人。こういう人はですね、ある程度は批判するということでやっております。






ま、それはですね、前向きな社会を作るという意味で、私はこれからも必要なことだと思っています。



(文字起こし by danielle)