高橋信次正法の祈り(2)
テーマ:高橋信次師の正説
責め裁くのは人間だけ?
祈りという定義を、私は高橋信次正法に出会う前は、
欲望を満たしたり、不平不満を解消したり、不安解消を求めて
自分と縁故者の幸福を求めて、第三者である神仏に祈りをささげ、
聞き届けてもらう思念と行為だと思っていました。
そしてなんら根拠もないそんな他力の信仰心を完全に否定する
「祈る暇があるなら行動せよ!!」という自力無神論者でした。
しかし高橋信次正法が説く祈りとは、
各人の欲望を満たす為にある行為ではなく、
各人との調和を創造する為にある行為であり、
神仏との対話であり、その対話に基ずく感謝の心が
祈り心である!と説かれています。
そして最後は、その祈り心で実践です!とあります。
これには、私は驚きましたし、心が揺さぶられ続けました!
「絶対自力」で「実践」せよ!ですから。
ですから、
高橋信次正法の「利用者」と「実践者」との差は、
或いは、
高橋信次正法の「錯覚者」と「理解者」との差は、
歴然と当たり前に存在します。
全く異なる「心の在り方」なのですからこれも「正法」なのです。
それらの原因による結果は、高橋信次正法によるところの
「大悟者」と「破綻者」として現れているのです!
法灯を示す立場で大悟された高橋信次師の魂の偉大さと、
その教えを学ぶ側の弟子達や周辺にいた人々の魂の未熟さによる、
アラハンの境地にも到達していない大差を見ると一目瞭然です!
高橋信次師は「正法の実践者」であります!
そこに集う者達は正法で「救われたい利用者」なのです!
そこから全ては始まりますから、それはそれで良いのです。
そして、日々の反省と実践を通して神理に気づき、
ありとあらゆる欲望という主体の「偽我」と縁を切り、
「善我の実践者」としての生活をするようになるのです。
しかし、その期間や悟りには何年~何十年という
時間と内容に個人差があり、転生輪廻の経験上やむを得ないのです。
「利用者」から「実践者」への卒業が待ち望まれます。
残念ですが卒業までのこの期間は彷徨う正法利用者なのですから、
フラフラフラフラして心が定まらない!
偽善の思念と行為に振り回される!
経済観念の損得から離れられない!
正法の知識だけは豊富だが智慧が無い!
正法の新説や歪曲を唱え始める!
正法に他宗教の理念を取り込み始める!
似非正法者か正法否定論者になる!
等々・・・・・
このように、
地位や名誉や経済的その他ありとあらゆる「隠し持った欲望」や、
「あらゆる不安」で「正法利用者」は翻弄されているから悟れません!
然るに堂々巡りの末に「正法に不信感」を勝手に抱き去ります。
実践できていないので不平不満が解消できないのです!
去るならまだしも、魔界の者たちに操られ似非正法を展開する
実に困った者達も存在します。
要注意ですから気を付けましょう!!!
それでも、このような者達をも神仏は全てを許し、慈悲と愛を、
生存に必要なものを全て与え続けています。
神仏は勿論、動物・植物・鉱物という生命は責める事を知らないし、
足る事を知り、不要な殺生や責め裁きをしません!
人間だけが責め裁きの思念と行為に明け暮れているのです!!
そして、尚且つ不都合な事象は他人の責任、社会の責任へと転嫁し、
神仏に救いを求めるのです!
それは違います!!
全ては自分一人の思念と行為の原因による結果なのです!
その、自分たち一人一人の集合体が社会現象であり、
地球規模の集積では国際社会の現象なのです!
私達の喜怒哀楽という今の生活の現象は、
全部、私達個人が「造り出した原因による結果」なのです。
恵まれた良きことも被る災いの全ては「循環の法」なのです。
神仏の裁量ではなく、私たち一人一人の思念と行為に沿った、
原因による結果として『法』に委ねられているのです!
それが現象化し実体験と共に学習して悟り得る仕組みなのです。
しかし、50年から80年くらいの一度の人生だけで判断すると、
「正法の利用者」の意識では理解できず、決して解りません。
転生輪廻という長期的スパンで考え、転生のその実体験と、
今生での正しい反省と実践が生活上に出来ているか?
自己という「善我」と人間神の子の「真我」との対話を通して、
常に「正法の実践者」として観て行かないと解りません。
如何なる逆境や境遇でも心を円く保てるか!
そんな本当の自分の魂との出会いを求めて!
今日も無償は光!と心を解き放ちましょう!