『時折聞こえるその声を、私は知ってるの』
明日は誘惑になんて満ちていなくて、昨日は霞みがかって見えなくなるけど、時折聞こえるその声をナダルは知っていた。
SPANISCHE FLIEGE D5
光の加減で満ち欠けするその声は、夕凪とともに去って行く。そして翌日になると、朝日の向こうからひょっこり顔を出して、彼女の肩を優しく撫でる。
平和なふりをする世界にうんざりしても、その声は優しくナダルに語りかける。
「黒い影に怯えないで、しっかりと前を向いてな。平等だなんて思っちゃいけないよ。花の香りと逆を行くんだ。通せんぼするトンビがいるけれど、うまく旋回の間をすり抜けるんだよ」
『トンビは何羽で飛んでいるの?』
まだうまく飛べないナダルは、その声の主に聞いた。
「その時々によってまちまちさ。鋭い爪が君の肌に突き刺さったら最後、底のない空へ引きずり込まれるよ」
その声は、ナダルのちょうど耳の後ろと肩の間で囁く。
『うまく飛べる自信がないわ』
「大丈夫だよ。遠くを見ながら飛べばいい。」
『遠くってどのくらい?』
「ずっと先だよ。土星の輪っかのその先くらい」
『うまく飛べるといいな』
「飛んでる間は時折こうやって声をかけるよ。心配しなさんな」
ナダルは目を閉じ、自分が空へ飛び上がるところを想像してみた。何を糧に飛べばいいのかまだわからなかったけど、なんだかうまくいく気がしてきた。
そして、父親のことを思い出していた。もう遥か昔のことのような気がするし、つい昨日のことのようにも思える。
紅蜘蛛
霞がかかった過去をかき分けて父親の声を探してみる。凪のように優しいその声は、私の肩をそっと撫でてくれる。