実感のない話 | ひとやすみの日記

ひとやすみの日記

自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

どーも聞いていても

自分の話として入ってくるものと
入ってこないものがある。

入ってもないことに関しては
逃げているわけではなく

ただただ
感覚がついていかないので
どうも
フィルタでよけられてるみたいなのだ。


人間だれしもこれはあるから
目の前にある幸せに気づけなかったり
悪いところばかりにフォーカスして病気になることも可能なわけである。


フィルタがないと
うかうか病気にも慣れない。

つまり
ネガティブ全開にもなれないのだ。


見ない
気付かないのは
人間の得意技であり

特技である。

それができるからこそ
好きな世界を体感することができるのだ。


もし、その
視界の狭さ
感覚の狭さが
なければ


みんなが同じような世界を体験し
「自分」という個が消えてしまうように感じるだろう。


一眼レフカメラが焦点を絞ると
周りがボケるように

人間は焦点を絞った部分しか
見えないことが多い。



昔の焦点絞れないデジカメみたいに
だだっと
同じように平面的にとらえる状態では

面白くもないのだ。


主観的に
個として
この世界を体験しに
ここにきてるのに

って。


何より主観だから
この世界が面白い。

小説や
映画はいつも

ストーリーは主観で

だからこそ面白くて
共感できる。


さまざまな人間の主観が織り交ざって
それがドラマになる。

おもしろいが

結局ひとは偏りがあることから抜け出せないのだ。


で、私も
見えない
感じられない部分があるのだ。

不思議だね。