語らない人ほど | ひとやすみの日記

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自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

『いま』を生きることが苦手な人ほど
スピリチュアルにハマる。


というのは
望んでいるのはこうではない、という
幻想、ドラマをいつも抱えて
『いまここ』にない理想現実を追うからだ。


つまり、
いつも、いまにもここにもいない人ほど
スピリチュアルに足を踏み入れる。

私もそうだった。

しかし、
いわゆる中途半端なスピリチュアル好き
というかは
真にその真髄、原理を理解しようとはせず
そのまま
分離感覚を楽しむことを目的にしている。

この人はすごい、特別。
当たった!すごい、見えるんだ、
感じるんだ、わかるんだ!すごい!
このメソッドすごい、効く、とか。なんとかかんとか。


その次元をずっと超えずに
そこに滞在し続ける人も
多いのだ。


私はどうやら
ちがったようだ。
レイキもわかりやすくアチューメントのあとビリビリしたり、なんだか見えたり
高次元と繋がる超感覚を感じたり、色々分離しながら楽しんだ。
しかし、それから5年経つ今は全く、だ。
本来の自分と繋がるのは日常的になっているし
高次元とすら分けて考えない。
レイキは滅多に使わない。マントラ唱えなくても繋がりたきゃ繋がれるし。
なんのエネルギーだか、宇宙だか、神だかわからんけど、何でもかんでも、自分と分けて構えるとおかしくなる。
みんな元々自分の中のものなのだから。


…しかし
ひとつ言えるのは
その分離感覚を、楽しむスピリチュアルマニア層の人たちは楽しそうである、ということ。

彼らの歪みは
このままいずれ大きくなり
分離感に悩まされることはあるだろうけれども
そのドラマすら、楽しめるのだろう。
悲劇でも、である。魂は、それを味わい楽しむだろう。

つまり、ただ
単純に彼らとは種類が違うだけである。

たまに
中途半端なスピリチュアル論を
語られる時

そういう信念か、と思う。


信念は、信念。
その人の現実を作っている大事なもの。


私はまず、自分のスピリチュアル論を外で語ることはない。まずない。
語る必要がない。

語る人は
多分それが本当に自分の中に落ちてない人。


分離が、言葉という形にする。

多分そういうことかなと
最近感じる。

語らず
生き方で見せる人ほど
知っている。

人は人を
目で見てない。