スピリチュアルにハマる。
というのは
望んでいるのはこうではない、という
幻想、ドラマをいつも抱えて
『いまここ』にない理想現実を追うからだ。
つまり、
いつも、いまにもここにもいない人ほど
スピリチュアルに足を踏み入れる。
私もそうだった。
しかし、
いわゆる中途半端なスピリチュアル好き
というかは
真にその真髄、原理を理解しようとはせず
そのまま
分離感覚を楽しむことを目的にしている。
この人はすごい、特別。
当たった!すごい、見えるんだ、
感じるんだ、わかるんだ!すごい!
このメソッドすごい、効く、とか。なんとかかんとか。
その次元をずっと超えずに
そこに滞在し続ける人も
多いのだ。
私はどうやら
ちがったようだ。
レイキもわかりやすくアチューメントのあとビリビリしたり、なんだか見えたり
高次元と繋がる超感覚を感じたり、色々分離しながら楽しんだ。
しかし、それから5年経つ今は全く、だ。
本来の自分と繋がるのは日常的になっているし
高次元とすら分けて考えない。
レイキは滅多に使わない。マントラ唱えなくても繋がりたきゃ繋がれるし。
なんのエネルギーだか、宇宙だか、神だかわからんけど、何でもかんでも、自分と分けて構えるとおかしくなる。
みんな元々自分の中のものなのだから。
…しかし
ひとつ言えるのは
その分離感覚を、楽しむスピリチュアルマニア層の人たちは楽しそうである、ということ。
彼らの歪みは
このままいずれ大きくなり
分離感に悩まされることはあるだろうけれども
そのドラマすら、楽しめるのだろう。
悲劇でも、である。魂は、それを味わい楽しむだろう。
つまり、ただ
単純に彼らとは種類が違うだけである。
たまに
中途半端なスピリチュアル論を
語られる時
そういう信念か、と思う。
信念は、信念。
その人の現実を作っている大事なもの。
私はまず、自分のスピリチュアル論を外で語ることはない。まずない。
語る必要がない。
語る人は
多分それが本当に自分の中に落ちてない人。
分離が、言葉という形にする。
多分そういうことかなと
最近感じる。
語らず
生き方で見せる人ほど
知っている。
人は人を
目で見てない。