生きるも死ぬも | ひとやすみの日記

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自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

生きるも死ぬも

どっちにしても
周りの人に迷惑がかかるという


人間は不思議な生き方をする。



もちろん
生きることで
周りの人に喜びを与え
死ぬ姿を見せて
人に
悲しみや苦しみ以外の
重厚な人生の教えを与えることもできるかもしれないが

そんなことは置いておく。


ただ
思うのは
人ってのは
人と関わらないと生きられない生き物だということ。

なぜなら
人から生まれているから。

人の細胞でできているから。



人をふと考えもなしに
リーディングしてしまうと

形が見える。

その人の形。


ちょっと精神が不安定な人は
形が独特。

形の輪郭がない場所がある。
かけている。

ちゃんと人間でいられてないみたい。


躁鬱の人はね
底のほうがおかしな形だったなあ。
なんだあれは。
起き上がりこぼしみたいになってグラグラ揺れるような形だ。

世の中でバランスよく活躍していて
自己肯定感がある人たちが
私のまわりにはたくさんいるけれども

彼らは、
人によって形は違うけど
枝の伸び方がしっかりしてるというか。
太い枝がこう、がし、がしっと伸びていて
輪郭はしっかりしている。

リアリティだね。

スピリチュアル系の人は
いろんな形があるんだけどね
人によるね。

輪郭がモヤモヤとあるのだけど
全体の輪郭の壁が透けて見えるように薄い人もいるし

縦長に竹みたいに、がしっとした透明感のない輪郭をもっていながらも
底と上がスカッとあいちゃってる、みたいな人もいるし
いろいろ。


みんな
自ら死ぬこともできず
生まれたからには
生きることしかできない。


ふっと「やめた~」と人間を降りることができれば
どんなにか楽かと思う。


朝、私は
半覚醒の意識の中でしっかりとわかったのだけど

生まれてから
こんなにも私は窮屈な思いをしてきたのかと
いうこと。

人間の体を持つって
こんなにも
すごい試練というかゲーム性が高いというか。

空気すら、だね。

もう、制限なのです。


私の体がぎゅうぎゅうに委縮し
猫背になる理由もわかった。

だって
こんなにも世の中は生きづらい。


しかし同時に息子と一緒にいるときの幸せは
この人間でないと味わえなかった奇跡。

この瞬間の幸福のために
ほかの瞬間を
過ごすのか?

それもおかしい。
いつも今を生きる。

息子とともにいる幸福も瞬間。
それを記憶に刻み、執着し
記憶の飴をなめまわすように、いつも感じるなんて


そんなことのために生きていない。



瞬間を感じるだけしか我々にはできないのかもしれない。
それが人間の精いっぱい。


人生の目的なんてないし
ただ生まれて死ぬ。


生まれた理由の目的は死ぬことではない。
だったら生まれた瞬間死ぬわ。

生まれた目的は、きっと「”瞬間(いま)”を体験すること、感じること」だ。

それだけなんだ。


未来も過去も存在しない。


それを体感で理解できて
それを知っているか知らないか
知ってても私のようにすぐに忘れて人間らしく生活するか
しないか

それもいろいろだね。



過去なんてない。
未来もない。
今しかない。


いったん降参することが
何より大事。


この世というゲーム環境に。
人間というゲームのコマに。

だってもともと
遊びだったんだから。



降参できない人、敢えて降参しない人が
人間をやめようとするのかもしれない。


私は
昔そんなときがあったが

あれは
降参の仕方がわからなかったから。
人間があんなに、他人に苦しみを与えることに絶望した。
自分の中にある大きな憎しみにも驚いたし、憎しみを持つ自分を責めた。
どんなふうに生きるかわからなくなり
人間に希望が持てない人はきっと、この世を去りたくなるのかも。


私は希望があるかって
わからない。

今しかないからね。
「希望」って未来でしょう。

期待、希望、願望すら
薄い。

しかし人は
欲求がないと生きられないと思うんだ。

だからそれが過去の感情から掘り起こした再現的な欲求でも
想像(妄想)からくる未体験の産物でも
好奇心でも
欠乏を埋めるための欲求でも

生きる底力になるとは思う。


人間は
ただ存在するだけでも
厄介な生き物だ。

でも
その「欲求」を失うと
存在理由がわからず
本当の意味で死ぬのかもしれない。