許したエゴは遊び道具。 | ひとやすみの日記

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自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

私ありがたいことに
思いのほか

周りの人や環境に
助けられて生きている。

今までだって
たまには、そのことに
瞬間的に気づくのだけど


自分がまだ
未熟というか
統合してないときは
人の思いやりも支えも

不安解消や、虚栄心を満たすため、自己肯定、
主に自己の存在価値の証明のための行為に
使って消化してしまい

本質的には何も見えてない状態にあった。


他人のための行為も同じだ。

自己の存在価値の証明のため。
または過去、現在の自分に重ねてそれを癒すため。

これが中心であり
本質的に相手のためでない。

私が旦那に対して
「何が食べたい?」と聞かなかった理由もそれだ 笑

作ったものに
「おいしい」と言ってもらえれば
「私が」満足する。

それが目的で作る。わはは。

まあこれは変な話の例えだけど。

人のためであるようで自分のためってことも
かなり多かった。

っていうか
全部自分のためだった。
きっとそう。

募金とか
ドキュメンタリー見て流す涙も。

ある種そんなものだ。

でもそれがいいとも悪いとも思わない。
まだ自分で自分を認めない世界にいただけだから。
だってその感覚しか持ち合わせてなかったんだもん。

でも違和感はずっとあったよ。
小説や、映画で見る
無私の状態ってどんなん?って
思った。

そういう風なタイプの人なんだなとか。


でも、子供ができて

子供のためなら
自分がどうなってもいいという気持ちが
芯から芽生えた。
親子ってちょっとね、本能的な部分あるから
また違う気もするけど。
でもきっとこれも一種の
きっかけかな。

はっきりと区分けもできないけどね。


でも、
子供を欲しがってるがなかなかできない私に
「まあなるようになるわ!monaちゃん、できなかったらそれもいいじゃない!」的にしてくれていた義母。
その義母が「まずひとり、まずひとり」と
陰で孫を欲しがってエゴ発言をしていたと聞いて
裏切られたと思い、かつて幻滅し、彼女を許さなかったけど

まあ、彼女は私をいろんな意味で大きく支えてくれてる人で大切な人で
エゴの一つや二つ
あって当然でありそれを表現することもあるだろうと。

そして
エゴは彼女を守るために必要だったと思える時が「今」やってきた。

あのエゴは
私たちへの思いやりじゃない。
ただの、ばあさん根性だ。

だけど、そのばあさん根性があるから助かる。
私は。

ばあさん根性がない場合、あんなにかわいがってくれないからなあ。
ははは。


エゴは。
あくまで
自分を守るためのもの。
守らないと、その人は、生きていけないのだ。
だから、許す。

しょうがないんだ。
私がそうだったように。


だから
自分を許せるように
人も許せるようになり
それでもいいと思うようになった。

エゴは
絶対に人(私)から抜けきらんと思うし
エゴはないと
やっぱ
人生は面白くないと思うし。

人にぶつけるエゴも
人にぶつけられたエゴも
その一つで
刺激剤だと思えば
面白いかもしれない。

ネタ化しちゃえば
最高に面白いし。

自分のエゴも含めてね。

許したエゴは遊び道具。