「共感」自体が存在しない | ひとやすみの日記

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自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

私は昔から勉強ができたので




できない人の


気持ちとかわからん。




思慮は浅かったが


勉学はできた。






しかし、


学習速度は速いし


共感体質なので


相手の感覚をすぐに盗めるというか吸収できるので


わがものとしてに焼き付けるは容易だった。




そんなわけで




「そうではないひと」の感覚は


理解不能である。






自分がそうであるので


みんなそうだと思う。






多様性は認めているが


理解はできない。






私が運動全般が苦手なことは


運動ができる人にとって理解不能なように。






共感により


私の学習速度は


恐ろしく速く


コピー人間のように相手の感覚をつかんでいくさまは


「おまえ、自分がないのか?」と自分で突っ込んでも突っ込みきれないほどだった。




でもそうするしかなった。それも覚えてる。




「感覚」という辞書の中の項目をコレクションし、そろえてるような




そんな感じ。


本当の内容を知らないのに。


字面だけを暗記しているような、そんな感じかな。







でもそれでも


どんな感覚かは想像できた。


想像は容易だ。




だけど


想像したものの自分がそうかというと


それは違う。




全く別の話だ。




だから私は


そこで自分の感覚をしばらく見失っていたように思う。




浅はかでありたくない。


思慮の深い人間でありたい。




浅はかであることは


罪だ。




思慮が浅くて人を傷つけることはたくさんある。




現にいま旦那が私に嫌な思いをさせているように。






思慮、


浅はか。




どっぷりどっぷり






相手の気持ちを慮れない人間は


この世から消えてしまえ。




そんな不器用な人間は不要だ。




迷惑だ。






昔の私への怒り。




過去世の私への怒り。






旦那は私ほどの共感力がない。


当たり前だ。


あったら気持ちわるい。男なのに。




でも私はそれを期待する。


なぜなのか。


共感力をきっかけとして


学習しない


旦那に相当にむかつくのである。




そもそも


共感自体が存在しないのだから。




共感しないコミュニケーションがあるとしたら


それがうちの夫婦なのかも。




共感ありきのコミュニケーションしかしない。


それがコミュニケーションだと思ってた私は




旦那のこと


あほだと思う。




能力がないと思う。こんなときね。








実は


ただ種類が違うだけという真実は


曇って見えなくなる。