願い事ってなんだろうと思う。
私が中学高校の頃くらいかな。
父が言った。『願いは全部かなうもんだ』と。
寝る前に呼吸をして、体の力を抜いていく。
そして、自分でアファメーションをとなえる。
「私はどんどんよくなる」と。
だけど願望は
具体的には唱えるとは教えられなかったな。
実際わたしはこのアファメーションを20代くらいまで使ってたように思う。
父は言った。
「俺はちょっとした社長が載るような車に乗りたいと思った。そしたら乗ることが出来た(金もないのに)」
他にもなんか願いがかなった事例を言ってたけどこれが一番印象に残った。
ちょっと突っ込みどころはあったけれど
「根本的に金持ちになることを望まなかったんかい?!」と。
でも今は分かるぞ。
根本的に金持ちになることなんて
彼は
望んでないからだ。
ただ、車が欲しかったんだ。
アコードに乗りたい!
それだけだった。
それ以上の願望なんてなかったのさ。
「根本的に金持ちになりたい!!」は
思考から来る願いであり
これは魂から湧いてくる願ではない。
だからこそ
かなう必要もない。
私は今まで
願い事は作るもんだと思った。
父に願いは叶うと教えられてから、ずっと願いは持っていたがそれも思考から来るものばかりだったな。
でも違う。
リストアップして言葉にして
掲げてる人ほど願いがかなうかって
それは違う。
と、私は思う。
同じだ。
結果は同じ。
願いを顕在化したかしないかだ。
単純にそういうことであり、願いが「ある」なら叶うし
「ない」なら叶わない。
作り上げた願いは矛盾があるから
一時的に表面的に叶ったとしても、実は本来望んでないので
すぐにひずみが出るか、消失する。
だから、もともと「ない」ものを作り上げる必要もないということだ。
単純に感じる欲望、願望
それは叶うと前提されたものだ。
なのに、そこに脚色して
「根本的にそれを継続的にかなえていくためにはこの状況が必要だ」とか
そんな「思考」が入ると叶わないことが
多いのではないかなあ。叶ったとしてもひずむとか。
と思うけど。私の世界のルールなんでそれは私のものだけど。
そうでない人もいっぱいいると思うし。
それは否定される物でもないと思う。
でも私はちょっとその「願望達成ゲーム」は
自慰行為的なものだと感じる。
願いをリストアップしてかなえてくってのは
私もしてみようとやってたこともあるけど
違和感があって
その違和感のもとは
筋が通ってないって感じたこと。
まあ、人によっては筋とおってると感じる人もいるし
全部、魂からのよどみない願いばかりを書いている人にとっては私の書いてることは
無縁な話だけどな。
私みたいに思考で手を加えて
ごてごてにしちゃって願をリスト化するような場合ね、
やはり違和感もあるし、かなえてもね、おなにーてきものを感じますわ。
なんつーか、究極の自己満足というか。
アートの世界もそうだけどね。自己満足。
でも、アートと違うのは
表現でない事、かなあ。誰にも見えない。聞こえない。
ココロの自慰行為みたいな。
でも、それもあり。
だって体の自慰行為って
必要な場合があるのがバランス世界であり、ココロの自慰も必要があるのは当然だということだ。
私はそれで満足することはなかったけど 笑
だけど今は現時点で必要ないなと思うようになった。
感じるまま生きたって
願いは叶うんだと
信じられるから。