昔、子供が欲しいと思っていた。
執着して25か月間
ずっとずっと念じて子供を欲しがっていた。
で、結果子供はできたけど、これは
思考うんぬん、より
単純に感覚的に、本能的に私の中に備わった願望として
「子供がほしい」とプログラムされていたのだ。
湧き上がった「感覚」を「思考」という強烈な願望に変えたけど
もとは「感覚」だった。
安心して
執着しないでもいずれはできたのだろう。
きっと、きっと。
それは
今だから思うのだ。
「思考」という名の執着を手放しても
ちゃんとそこに、つまり自分の中に
純粋の願望があるならば
きっとそれは叶うのだ。
なんでも。
気合いを入れても入れなくても
叶うことは叶う。
タイムラグすら一緒。そのタイミングだ。きっと。
思考してた25か月と
何とかなるさの25か月間、叶うタイミングも、一緒だとしたら
私のその間の経験、道は無駄だったかっていうと
そうではない。
私が思うのは
思考こそが人を成長させると思うからだ。
感覚だけでフラッシュ、フラッシュで
生きてて何とかなるさ~ばっかりの人は
はっきり言って
人間としての経験が満喫しきれないと思う。
そして経験こそが
人間の感覚を磨く道具でもあるからだ。
将棋の羽生さんが言ってたけどね、
大局観というのをね。
経験のない人間の感覚なんて
まあ、やっぱだめさ。
だめっていうか
やはり意識した経験、体験を多く持ってる人間の方が
感覚が鋭いものさ。
だから意識して執着しまくった、人間らしい人生に無駄なんて一つもないと思うんだ。
感覚だけで「なんとかなるさ」と生きる。
それだけでいいなら
本当にいい。
でもそうはいかない部分もある。
それも知りながら、
あえて
感覚を思考に変えないで生きることをしてみる。
これが面白い。
感覚に「お金が欲しい」があるなら
きっと思考に変えなくてもお金は入ってくるさ。
もともと持ってる感覚なんだから。
紙に書いて、お月様に唱えるとかしなくてもいいのさ。
思考にしなくていいのさ。
こだわることもなくていい。
だって本当に体験したい欲望は
もうすでに持ってる。
人の感覚をより集めてまで、わざわざ「願望」を作り上げることもないのだから。
だから安心して
湧き上がってきた「感覚」を手放す。
私は思考なしでも願いはかなえる。
私は願いを紙に書かなくても
人生をうまく生きられる。
そう信じることができたのが
先週。
今まで
思考しないとかなわないと思ってたけどね
そうじゃないなと
感覚的に
そう、それこそ感覚的に気付いたんだよ。やっと。
安心して
私は考えないのだ。