責めるものは何もない | ひとやすみの日記

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自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

この領域に到達すると




どんなにか


楽か。






旦那を見ても


苦しくないし




自分が何をしてもいいと感じるだろうし




もう怖いものがない。




きっと。








行為や


事象


出来事




これを水あめみたいに


その人間の「人間性」とかと結びつけるような


生き方をすると


つらいのだ。




正確に言うと


その行為などを発した人の感情を勝手に推測して


その行為そのものとその人間そのものを否定するのであるけれど




その推測は自分の中にある感覚のみしか推測できないので


実質自分の中を見ていることになる。




仮にその推測があっていたとする。


でもその感情の背景を


知ることはできない。


仮に


一部でも、知ることができたとする。


たとえば、貧乏で馬鹿にされていてすごい屈辱を感じていた日々が


その人にあった。


だからそれをカバーするための言動だった、とする。




それで単純に許せるか?




どうなのか?


どんどん問題が変わっていく。




結局そのことへの執着、こだわりを捨てられるか


自分をそこから解放できるかのゲームに変換されていく。




実際の出来事はもう


置いていかれている。




やはり、自分の中の問題となる。




その物事を起こすもとになることが


あろうとなかろうと


結局「自分の中」の話。




あまりに気になったら


具体的推測をして気を静めるも一つ。




でも、その行為等が


自分に影響を与えるか与えないかを自分がえらべることを


ただ知っているだけで




そのことすら回避できるのかも。






責めるものはない。




ただ


誰でも受け入れもしない。




でもその人たち誰も


憎んでもいない。




ただ喜んで受け入れない。



「人」と「その人の行為」を分けることで


きっと初めて


この人から、影響を受けない、と決断もできるんだ。




相手のせいじゃない。



でもたとえば、言ってみれば
DVな夫といつまでも結婚している必要もないということ。
夫の人間自体のこととDVという行為は別物。

夫自体を否定せず
彼のDV行為を否定する。
それができる人が
離れることができるということ。

誰でも、すぐ脇に舗装された滑らかな道があるのに
ガラスの破片が巻いてある道をわざわざ通りたくない。


それだけの話だ。




なんだ。