そうだそうだ
外にいるのが楽だと思ったのはなぜか?
そこから
探究していこう
ほかの人からの感覚を閉じれば
いつでも
誰といても自分は自由でいることができる
ただ私のような感覚の持ち主は
きっと誰といても
疲れる
邪魔されているように感じる
それが無意識、意識かかわらず
それは私のせいでもなく
周りのせいでもない
ただそういう性質という話である
で、いまさら「エンパシー」の本を開くのは
面倒くさいので自分で感じたい
自分の中にいるのが
子供の時は苦痛だったか?
いや?
自分の感覚がなかった?
そうかも
場面緘黙症の私は
自分の感覚は恐怖ばかりだった
相手の言動はすべて「否定」に感じたしね
自己肯定なんてとんでもない話だった
自分の感覚を大事にしてこなかった
変だと思ったし
使い物にならんと思って
それは捨てようとしたのかも
まあ、かわいそうなわたしの感覚
そして肉体まで否定していたのだから
すごいよね
人間的感覚の虐待だよ
本当にそうやって
多感な時期を過ごしてきたので自分の感覚をないがしろにしすぎて今更
自分が純粋にどう感じているのかなんてわからなくなった
そういうことからも来ているような気がする
そこから他人の感覚に敏感になった
誰しもそういうものかもしれないけど
相手の考えていることをだいたいわかるようになったし
どういうことをすればどういう風にリアクションするとか操るような気持ちにもなった
でもさ
旦那と一緒になった理由はわかる
あいつも
私と一緒で盲目的天然要素がプラスで入っているからだ
で、変わってる
私と一緒
盲目的天然要素が入ってるけど、私はマイナスに作用しているような感じ?
厳密にはマイナスじゃないけど
そのもともとの要素は一緒で
どういう風に体験をもとに進化したのかで
だいたいの根底は一緒なような気がするのだ
旦那も私も
天然の子供心を捻じ曲げて否定して
叩き潰して、虐待したぼろぼろの雑巾みたいにして持ち合わせているのが私
小さなままの天然の子供の心を
鉄壁の要塞で守ろうと必死なのが旦那
同じものを持ってるけど
お互い扱いが違うのよね
本当に