誰かといたって | ひとやすみの日記

ひとやすみの日記

自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

私は一人の時間がないと

自分のことを見つめられないと思っていた


そして

一人でいないと

自分本来の姿でいることができないと思った



でもちがったようだ



それに気付いた


何にしても

この世は完璧だと思ってしまう



段階がきちんとあって

そして

それにそってストーリーが展開していく


順番は

確実だ



すごい



自分は何をしていても自分であり

結局

「何をするか」でなしに

何をしてても「自分に価値がある」と感じることができれば

事象は関係ないこと

それに気づいた瞬間から

さらに加速度を増して物事は展開



そして

自分の中にいること

外に出て他人の感覚ばかりになりすますこと


そのメリットデメリット

良し悪しでなしに、特長とでもいうか


えーと

そういうのに向き合わされた昨晩だった



息子が昨夜も38℃以上の熱

咳も出始めて

うーん、と彼にフォーカスしていた



すると

彼がどんなふうに咳で苦しいのかとか

熱が下がらないとどんななのかとか

自分というものを忘れて心配した


寝ながらね



そしたら

あるとき

「何やってんの?」

みたいな感覚が来て

「あなたの足の感覚は?」

「あなたのおなかはすいてる?」

「寒いの?暑いの?」


そういう風に語りかけてきた


私は自分の体の感覚にふと戻った

「足はだるいけど気持ちいい。風があたる」

「おなかはすいてない」

「寒くもない、暑くもない、ちょうどいい」

そして

それを確認するとともに

自分がすごく健康な感覚を持ってることを思い出した

「私は今、どこにも体に変調がなく、痛いところも不快なところもない。それなのにその体の感覚を捨てて

不調な息子に同調しようとしている。すごい趣味だ。。。」


私はせっかく健康で健全な感覚を持ってるのに

そうでない方を選択しようとしたのだ



なぜか?


これは

だんなと対極になる



だんなは子供が泣こうが

それに文句つけながらわきで寝ることができる


子供が病気でも、自分は普通の生活を送ることができる

子供が熱出して辛そうでも「馬刺し食いてえ」とか状況に関係なくわがままが言える



それを軽蔑していたものの

まあ私にない部分というか

個性の違いなのだと気付いた


彼のように「自分の中」にいる人はどこでだって安心して寝ることができる


私みたいに「自分の外」に出たがる人は世界全部が自分を邪魔していると思っている


どっちが悪いとかじゃない


でもどっちにも社会的、または精神衛生上の利点・不利な点もある



だんなは相手の気持ちが読めない

読もうとしないからだ


そういう生き方だ



私は相手の気持ちを読もうとする

(意識できる時だけね)

それは相手がどのように考えるか、それをシュミレーションする癖や、膨大な人間のリアクションデータを持っているからだ



旦那は気が利かない印象になるだろう

私はそうでもない、たまに爆弾発言するけど


でもどっちがいいなんてないのだ


どっちがその人にとって楽なのかだ



私は外に出る方が楽なのだ

自分の中にいるよりも



そういうことを昨日思った

つづく