人は
自分の持っているものに気づかず
ないものにばかり気づく
それはなぜか?
「当たり前フィルタ」が存在するからだ
人は
自分の持ち合わせるものが
当然のものとして
麻痺するものだ
それが健康的だ
いつも歩けるのに
歩けることに毎日
感謝して歩くだろうか?
二本の足で歩けることに感謝するときは
どんなときかと想像すると簡単だ
歩行困難な怪我や病気をしたときだ
失って初めて
そう思うのだ
親を失った人は
大体言う
親が生きているうちがいいと
失って気づくことが多い
でもそれは避けて通れない
人は
当たり前フィルタを
他人から取ってもらうことが出来ない
私は昔
食料に困っている国の映像を見たり
戦争している国の状況を聞いたりして
私はそれでも幸せなのかもしれないと
思った
だが
なんかすっごくヘンな気持ちになった
もっと不幸な人がいるから?
だから私が幸せだと?
誰から見て?
ほらね
架空の世界と比べたって
実感なんてわかないよ
「当たり前フィルタ」をはずすのは
あくまで自分の体験だ
どこが当たり前?
あなたにとっては
どこが当たり前?
老人たちは
周りの人がどんどん病気で倒れたり死んでったり
介護になっていったりする
すると
「私は幸せな方なのよ」と
よく言う
欲もなく
あきらめたよう言う
周りの老人たちに比べれば
私は幸せなほうなのよと
相対的に
生きるってどんなものかね
自分の人生に満足する材料を
外に探すのね
そんな老人たちは寂しいと思った
でも
本当のところはわからない
どんどん
「当たり前フィルタ」が消えていく老人たち
彼らは
周りと比べて
自分に「まだ」与えられているものに気づく
そして
幸せを感じようとする
私は
そんな風に
当たり前を損ねていくには
まだ早いのだ
十分に当たり前の少ない子供時代を送ってきた
今も
自分の当たり前に気づくときがあるが
妙な気持ちだ
みな人はそれぞれオリジナルな
凸凹とした形で(体型の話じゃないよ)
容量は一緒だと思っている
しかし
抑圧されていると
その
輝きが見えない
当たり前でなかったのに
当たり前になった部分って
それはそれは
磨きがかかって
輝いて美しい
最初っから
当たり前で
ずっと当たり前のままのものより
ずっとずっと美しい
と、私はそう思う