人を信じること
それがベースだよね
と思う
最近は特に
誰でもが
素敵な愛の人であり
表現にムラがあったり
誤解をよびやすくとも
その誰でもが
愛の人
だと感じずにはいられない
まあ
表現が下手な人って多いよね
私も含め
私は特に特に誤解されやすい奴だったしね
隣のメーカーの
とにかく変わってる人
あんまりこの店には入らない人なんだけど
この間も前触れもなく突然私のとこに来て
○○を見たいんだけど…みたいな感じで
店の独自の機械のシステムを教えてほしいということだったけど
頼むでもなく、私の状況に配慮するでもなく
やってきたので「?」と思ったけど
まあいーや、と思って親切丁寧に時間を使って
自分の売り場を長時間あけて教えてあげた
さらりとお礼を言われたけど
まあ、別に、と思って特に何も思っていなかった
そのいきさつで私が感じたことは「やっぱり変わっているな」ということだけ
で、それから次の次のときくらいに
会ったときのこと
突然に「この間はいろいろ教えてくれてありがとう」と
あわてるように
お菓子の袋くれた
そんなのぜんぜんいーのに…
彼女なりに感謝してたというわけか?
それか
それを形にしなくてはという強迫観念か?
まあそんな風にも考えない私は
素直に
「やっぱ、表現は変でも 感じることは同じよねえ」と
と思ったとさ
うちの父もそうだけど
表現が下手だったり
やわらかな雰囲気作りが下手だったり
配慮が足りなかったり、とか
そんなことは
どーだっていい
と思えるようになりましたとさ
だってさあ
仕方ないじゃん
みんなが良かれと思ってやってる
または
本当に気づかないか
自己防衛なんだから
でも、気づかないのは
仕方ない
だってさ
10年後でも
3ヵ月後でも
2時間後でも
そのことが相手に悪かったかも。。。って
あとで気づいて
落ち込んだり
自分を責めたり
内省するときって
あるだろうな、って
そう思うし
それでいいと思うから
あくまで「その人の問題」なのだ
だから
失礼な店員でも
マナー知らずのおばさんでも
誰でも
そのことで私たちは頭を悩ませたり
反応したりする必要がない
もし
反応するなら
自分自身が同じ問題を持っていることになる
同じというのは語弊があるな
自分がそこに感じたことが
自分の中にある問題と同一であるということである
あくまで相手は相手
相手の問題だ
私はそう思う
だから
ほっといても
人間は勝手に気づき
勝手に反省し
勝手に成長する
だから
責めることも
必要ないのさ
そう感じ
そう生きる気持ちよさ
これは
今まで自分を信じられなかったとき
得られなかったもの
自分を信じたとき初めて得られるものだね
だいたい
だんなに対して
たまに責めている私だけど
彼に対して自分が感じたことが
まさに自分自身の中にあることを責めてるのよね
それも良くわかるから
なお、人は愛しいものだ