私は
考えることが好きで
考えることに
価値も置いて
過程を知らないより
知っていたほうがいいと
そう信じていたけれど
知らなくてもいいんだね
何か
科学者が発明するときでも
最終的には だいたい
ひらめきで
思いつく
そして
そのひらめきの答えの
つじつまあわせに「思考」を使う
結局 A→B
ということも
なぜAがBになるのか
ということを
理論的に説明できるのが
科学者である
そして
「本を書く人」である
科学者も
そのひらめきを
「一生懸命考えたからひらめいた」
と思っているかもしれないけど
実際は違うと思う
答えを求めて
ボーっとしてたら
ひらめいたのだ
多分考えて考えた末なんて
素敵な答えも
ひらめきも無い
あるかもしれないけど
無いほうが多い
力めば
見たい方向にしか答えを見出せない
見える範囲を狭くするだけだ
ボーっとして
すべてを手放しているほうがひらめきは訪れる
そして
ひらめいたことを
後から つじつまを合わせる
数学の証明作業だ
結局
A→B
だとしたら
ただそれはそれ、でいいのかもしれない
ただ
それを人に教えてあげよう、それを
誰かにひらめかせるためにヒントを与えられる人になろうと
思っているなら
きっと
つじつまを合わせたり
より、他人にわかりやすく
伝える形に変換するだろう
変換する必要が無いと思っているなら
そのままだろうしね
誰に伝えるでも無しに
自分で分かればいいやって人は
別に証明作業も
変換作業もいらないんだろう
私は
つじつまを思考で合わせてきた
そして誰か、私と同じように苦しんでるひとがいるならば
私がわかりやすくヒントになればいいな、と思っていた
けれど
いちいち考えることに
あまり価値を感じなくなり
よくわからなくなってきたので
とりあえず今は
分析をやめて
わからないことがあったら
ただ聞くことにした
そしたら
理屈で考えるより
とても楽になった
ブログを書く人の中には
私のように論理的に解釈したい人間が読んでも
「おお!なるほど」と思うものを書いている人もいる
やはり
その人たちは
誰かに伝えようと思って
論理的に
考えて自分の中を整理出来ている人だ
私はその人たちのブログに、本に、すごく助けられた
やっぱり根底、基本は大事だ
でも、ある一定のところまでくると
その論理を固めることが
意味無く感じてくる
説明する相手もいないことに気付く
別に
自分がよければいいのだ
私は癒しを仕事にしているわけではない
ただただ
目の前のお客さんの
満足度をあげる、それだけ
その中に共感であったり
励ましであったり
そういうことが
接客の助けになるけれど
それだけだ
世の中面白いね
ただのひらめきも
つじつまを合わせて論理をつけると
すばらしい発明として
世界中の論理的思考の
三次元社会に受け入れられるのだ
もちろん
つじつまを合わせることができるのは
才能であり知識がないと
出来ないことなので
やはりそれは特殊能力だといえると思う