ネキの忘れ物


「実家に戻る」が

一時的な帰省ではなく

引越しだと知ってから

彼女は10分で去って行きました。


わたしは

当直明けの疲弊した脳細胞を

10分間フル回転させ

ようやく現実を受け入れました。


こう書くと

わたしが彼女との別れを

惜しんでいるかのように

感じるかもしれませんが

わたしたちは決して

別れを惜しむような

間柄ではありません。


親しくもない相手と

電話を共用するという

現代では考えられない

おかしな関係のせいで

お互いのプライバシーに

微妙な塩梅で触れ合っていました。


そのことが

彼女とわたしの間に

奇妙な親近感を

もたらしていたのは確かです。


実際わたし達は度々

お互いの電話を受けたり

留守電を聞く機会がありました。


でもその内容について

話したことは伝言を含めて

一度もありません。

伝言は受けないのが

暗黙のルールでした。


引越しすることを周囲に伝える

時間がなかったのか

引越し後しばらくの間

本人がいないことを知らない

様々な人が

電話をかけてきました。


電話を受けた時だけは

みなさんに同じことを

丁寧に伝えました。


既にここには住んでいないこと

連絡先は聞いていないこと

よって伝言もできないこと。


一方留守電は

無視させてもらいましたので

連絡がつくまで何度も

かけてくる方もいました。


彼女は

電話をかけてくる

たくさんの人々との関係を

まるで断ち切るかのように

ここに置き去りにしました。


故意に置き去りにしたのか

忘れて行ってしまったのか

わたしには

知る由もありませんでした。


そしてその忘れ物が

思いもよらない方向に

わたしの舵を切り

わたしはある人物と

出会うことになります。

26歳の冬でした。