マスクと口髭
A氏の説得に
玉砕されたわたしは
直接会うことになりました。
指定されたお店は
目黒駅からほど近い
よく言えばアンティーク
実際は
35年という年月を差し引いても
なお古い喫茶店でした。
広い店内に
お客さんはまばらだったと
記憶しています。
初対面にもかかわらず
わたし達が迷わず会えたのは
A氏が約束通り
マスクをしていたからです。
名前を確認した後で
マスクを外したA氏は
口髭をたくわえた
スマートで長身の紳士でした。
そして
少なくともわたしより
10歳は上に見えました。
口髭を除けば
想像していた外観と
大きなズレは
ありませんでした。
一方A氏は
わたしが殊の外若いことに
驚いていました。
引っ越した彼女と
同世代(30代半ば)と
想像していたようでした。
軽い自己紹介の後
A氏は
〝高価な預かり物〟を
預かることになった経緯を
話し始めました。
それは概ね
次のようなものでした。
『私(A氏)と彼女は
あるパーティーで意気投合し
その後も何度か
食事をしました。』
『自分としてはただの食事で
お付き合いをしているつもりは
なかったし
勿論男女の仲でもありません。』
『ところがある日彼女から
驚くほどの高級腕時計が
送られてきました。』
『彼女から
このような高価な品を
いただく謂れはないので
一刻も早く
返却させていただきたい。』
『返却が遅れると
彼女に誤解を与えかねない
・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・』
話を聞いているうちに
わたしは
言葉にできない
混乱に陥りました。
話は
はっきり聞こえているのに
その意味が全く理解できず
聞けば聞くほど
話の内容とは無関係な考えが
頭の中を縦横無尽に
駆け巡りました。
その荒唐無稽な考えが
頭の中を席巻した瞬間
わたしは
遠い過去に
吸い込まれるような感覚に
襲われました。