切なくて厄介な記憶


「zeroのボーカルの方ですよね」


今でこそ

何事もなかったかように

綴っていますが

その事実に気付いた時の

わたしの驚きは

知る限りの言葉を

尽くしても尚

言い表すことはできません。


幸いにも

わたしの直球すぎる質問を

A氏は潔く

受け止めてくださいました。


「彼女から聞きましたか?」


zeroはライブバンドですから

TVで目にすることは

ありません。

余程のファンでもなければ

普段着でマスクを着用し

ギターも持たず

歌唱もせずに

ただ話しているだけの彼を見て

その人だと言い当てることは

できるはずがありません。


前述のA氏の質問は

このような事情に基づく

ものでしょう。


彼女から聞いた訳では

ありませんでしたが

20年遡って

説明するのも億劫なので

否定も肯定もしませんでした。


わたしはA氏の顔を

知りませんでしたが

その声を聞いていると

幼少期の

〝切なくて厄介な〟記憶の中に

吸い込まれそうになりました。


潜在意識の奥深くに埋め込まれた

〝切なくて厄介な〟記憶。

まさか20年も経って

〝切なくて厄介〟の

元凶となった本人に

それを掘り起こされることに

なろうとは。

運命論者でなくても

運命を感じてしまいました。


それにしても

幼少期の浅はかな錯覚を引きずり

A氏にとっては

完全に謂れのない恨みを

20年に渡って持ち続けた

自分の粘着気質に

我ながら嫌気がさしました。


A氏に対する

お詫びの気持ちもあり

わたしは彼の申し出を

断ることができませんでした。


こうしてわたしは

かの高級watchを

彼女に返却するという大役を

仰せつかることになりました。