自分の欲深さに気付く | hello-candy-candyのおかりなブログ

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ひねもす土の音(オカリナ)の響きに興をもよおせど、しばし徒然なるままに由無し事を綴りけるなり。

 1日1曲ずつオカリナを演奏しています。

  今日の曲は「見上げてごらん夜の星を」です。

  このブログの最下欄にリンクが張ってあります。

 

 

  知り合いが物故者に

 

 今朝は、昨朝とは打って変わって、青空が出ている。室内に入って来る風が気持ちいい。若い頃、一緒に山に登った仲間たちの近況を受け取った。上高地や、伊豆の山に行ってきたという、今でも山登りを続けている仲間たちの近況に、今では行動半径1Kmの平地しか歩かない私も活力を貰う。この一年の物故者の知らせに驚く。えっ、あの人が…。

 

  幸せに理由が要るか

 

 私は、幸せか?と問われれば、いゃそれほどでもと否定する。では、不幸せか?と問われれば、そんなことはないという。結局、不幸せだとは思わないけれども、特段、幸せだというほどのこともないという感覚だ。これは一体どのような心理状態なのだろうか。強いて言えば、不幸だと感じている時の状態というのは、具体的にその原因が存在する。同様に、幸せだと感じるためにも具体的な理由がなければならないはずだと思ってしまう。なぜそう思ってしまうのだろうか。

 

  当たり前であることが幸せということだ

 

 健康についてもそうだ。ごく普通の状態にいるときは、私は幸せだとか、健康だなどと殊更には思わない。当たり前だと思っている。なぜ、それが当たり前だと思うのだろうか。それが生まれた時の原点だからだろうか。本当に人は皆、生れた時は幸せで健康だったのだろうか。そんなことは言えないはずだ。だから普通の状態が当たり前だとは言えない。ということは、この普通の状態が、文字通り幸せで、健康な状態だということだ。にもかかわらず、何か具体的な証がない限りは幸せだ、健康だとは感じられないということは、いつまでも青い鳥を求めているのと同じことで、自分の欲深さによるものだと思わずにいられない。

 

  近代文明の影響

 

 もう一つ見方がある。きゅうり栽培農家で出荷前の選別を行ったことがある。長さや重さが一定範囲内かどうかを仕分ける。慣れた人は目分量でてきぱきと仕分けている。規格外品が一定割合以上混ざっていると、集荷場が受け取ってくれない。不慣れな私は規格標準品を見本において、それと対比して判別した。が、時々迷うので、秤を手元に置いて目分量したものを秤で測って自分の感覚を微修正した。どうしても選別作業が遅くなった。人間も同じように扱っているのではないかとふと思う。人間としてのある一定の規格があって、その範囲内を当たり前の人間とし、規格外を不幸としたり、不健康としていると。この見方は人間を個別ではなく、大量品、集合体とする見方だ。つまり、こんなところにも、我知らず近代文明の見方をしていることに気付かざるを得ない。

 



▼Myオカリナ演奏

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