お金の収集が他のコレクションと違う点
現代人の頭の中は、お金のことから逃れられない宿命にある。お金は不思議なものだ。単なる紙切れなのに、それに命すら懸けることもある。お互いの信用に基づいている。便利でもある。持ち運びがたやすい。最初は誰でもとりあえず食べれるだけのお金があればいいと思う。
だが、増えるにつれて、もっと欲しくなる。昆虫や切手やコインなどのコレクションと同じだ。が、集めた実物の山を前にして、同好の士と語らう楽しみが目的だ。だが、お金はまずは集積自体が目的で、楽しみはその後となる。
何歳になってもお金への愛着は衰えない
東京五輪の公式スポンサーとなることへの口利きで、2億円以上のわいろを受け取った組織委理事がいた。高橋治之被告79歳だ。その年でそんなに大金を持ってどうするつもりかと思うが、むしろこれまでもずっとそんな金銭感覚で生きてきたのだと思う。
初犯とは思えない。現在もあの行為は民間のコンサルタント業としてやったので無罪だと主張して、裁判で争っている。本人は社会人をスタートした頃から50年間で徐々に身に付け、もはや四六時中お金のことが頭から離れないのだろう。
金銭感覚がマヒする理由
彼が属した広告業という業界は、具体的な成果物がある広告デザイナーやコマーシャルフィルム制作といった職種を別にすれば、広告した宣伝の成果と対価として得るお金の多寡を公平に判断するモノサシがない。
僧侶のお布施と同じだ。だから良く言えば、人間的な才覚が発揮しやすい仕事だ。彼に限らず、我々はもはや汗水たらして働くのは、才覚のない人のやることと思っている。だが、きれいごとではあるが、こうした金銭以外の何かを大切にする社会にしないと、人間社会の見込みはないとつくづく思う。
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