どんな社会に暮らしたいか | hello-candy-candyのおかりなブログ

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ひねもす土の音(オカリナ)の響きに興をもよおせど、しばし徒然なるままに由無し事を綴りけるなり。

 一度きりの人生。えてして過去は美しく、そして未来は暗いものだ。が、悔いのないように生き抜きたい。

 

  人生の初めは不安だったが

 

 後期高齢者となった今、これまでの人生を振り返って見て、当初想像していたよりは、順調だったので、まぁ及第だったかなと思う。これはひとえに壮年期が高度成長期だったことと、健康だったという幸運による。一体どんな社会が、より多くの人にとって住みやすい社会といえるのだろうか。

 

  人生は一言でいえば競争だった

 

 私の人生は、一言でいえば競争だった。学業成績、学歴、出世だ。どっぷりその中に浸かっていたので、客観視は難しいが、それほどそれらにガツガツした覚えはない。けれど、常に意識の片隅にはあった。すべてから解放された今、若い世代に残したい社会とはこんな世知辛いもののない社会だ。

 

  競争がなければいいのか

 

 とはいえ、生まれた時から人生が定まった身分制度でがんじがらめの、封建社会への逆戻りでは意味がない。結論から言えば、自分が納得できる自由な社会だ。そういう社会には競争は必然ではないか?うーん、それでは話が堂々巡りになってしまう。自由な選択ができるが、競争的ではない?そんな都合のいい社会がありうるだろうか?

 

  自由裁量幅がカギだ

 

 理屈上はあり得る。規範が緩やかで、画一的ではなく自由裁量できる幅が広い、十人十色が当たり前の社会だ。例えば、学校では、自分の学びたいことが納得できるまで学べる。そのためには、学校の修了期限も修了成績等の条件もない。学びたいこと、興味ある事を満足できるまで学べる、ここで習得した能力で実社会に出て働いてみようという気になったら学業を修了する。実社会では、働きたいように働く。働く時間は自分で決め、ノルマは課されない。いわば個人事業主だ。バリバリ働くもよし、のんびりとノマド生活するもよしだ。収入は働き次第だが、最低生活保障はされる。

 

  他人と差がつくのは当たり前だ

 

 各人の生活レベルや社会的地位には当然差はつくが、それが競争の結果の勝者と敗者ではなく、その人ごとの価値観や働き方の違いであり、差が生ずることに納得できれば、誰も文句は言うまい。今の社会を見ていると、戦争の恐怖、貧富の拡大、暗黙の世間常識というプレッシャなど、希望の持てない未来しか思い浮かばない。

 

  最後は人間の英知を信じたい

 

だが本来、人間の英知は素晴らしいものだ。なので、50年後、100年後にはもっと人間らしい自由な人生が送れるそんな社会が来て欲しい。あまりにもお気楽すぎるだろうか。

 

↓Myオカリナ演奏

 

SWEET MEMORIES(松田聖子唄)

 

聞いた記憶はかすかにあるが、歌ったことなどないこの曲をオカリナで吹くことは難しかった。テンポがゆっくりな上に、12/8拍子というタイミングの取りにくい、へんてこなリズムのせいだ。だが吹いているうちにだんだん興が乗ってきた。やっぱりいい歌は、そういうものだ。