身も蓋もない現実なんだけど、こういうことを書くと、たぶん誰もが受け入れられない、受け入れたくないことだと思うんだよね。
だって、誰も分からないから。
死を悼むということは、亡くなった人のことを残念に思うこと。その人に、もう会えない。その人の笑顔を見ることは、もうできない。その人が活躍する姿を、もう見守ることはできない。。。これらすべて、自分の気持ち。
人間には、相手の気持ちを思いやる「感情移入」という素晴らしい能力がある。
この能力は、目の前にいる他人の感情を(なにも言われなくとも)察したり、(何もしなくても)想像したりするだけでなく、そこにいない、あるいは存在しない人の感情ですら想像することのできる「思いやり」の能力だ。
そして、「思いやり」が発揮される強さや深さは、本人(と、その人のあいだ)の知識や経験の量に大きく影響される。
「なくなった君のお父さんも、きっと喜んでいるよ」
これは、自分が「お父さん」の気持ちを想像して、代弁しているのであって、「お父さん」が実際にそう思ったことではない。もちろん生きていればきっと、そう思うには違いないのだろうけど。。。
どういうことかというと、亡くなった人を悼む気持ち、悲しむ気持ち、そして類推されるいろいろな「気持ち」を、いつのまにか我々は、自分のものではなく「本人が思ったこと」にすり替えてしまっているのではないか、ということ。
「君のお父さんはそんなこと喜ぶだろうか」
「じっちゃんならそんなこと言わない」
「ご先祖さまが悲しむよ?」
自分の言説の説得力を高めるために、存在しない人の「想像の思い」を利用したり、味方につけようとしていたり、しないだろうか。
「死人に口なし」とは、亡くなった人は自ら言葉を発することはない、という表面的な意味だけでなく、亡くなった人の言葉を生きている人が好き勝手に創造できるという裏返しの意味をも含んでいる。
だから、「想像」によって「創造」された、亡くなった人の思いや言葉に、我々生きている人が決定を左右されたり、意識を縛られたりしていることがないだろうか、と思うのである。
けっこう、あるんじゃない?