法学論考 ミネルヴァの飛翔  各論4-5 | アルマンのブログ

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ミネルヴァの飛翔 
                          ~テーミスの剣の研磨に寄せて~           村 山 武 俊

各論 4-5

訴訟法について

 

 (3) 行政訴訟

 

 ① 特別権力関係論について

 

 以上において民事訴訟についての概略を述べましたので、次に行政訴訟について簡単に触れたいと思います。憲法論において繰り返し強調したことですが、奴隷支配を確固たるものにするために、国家の優越性を法学理論として確立するには、国家に適用される公法という分野を特別なものとしなければなりません。これを一般人に強引に納得させるために、国家は倫理の究極的維持実体であり且つその最終的守護者であって、欲望と混乱の巣窟である市民社会に対して常時後見的に君臨しなければならないという邪悪な妄想の根拠をドイツ観念論の法哲学が用意したのであります。この結果として産まれたのが、プロイセン帝国のお先棒を担いだドイツ人官吏が異常な執念を燃やして構築した公法・私法二元論なのでありました。

 換言すれば、公法特別論または公法・私法二元論は奴隷支配確立のための第一歩となる法学理論なのであります。この理論を土台として奴隷支配を完成させるためには、更にもう一段の工夫が必要なのであります。その工夫とは国家機構の中で権力行使部門を担当する執行権力に立法、司法といった他の機関の権能を吸収させることであります。このようにすることで、執行権力は配分法と衡平法の制定と適用に関する主要な権限を独占し、自己の意思にしたがって国家の制度を構築し、国民の権利義務の内容を思うままに決定し、正義を任意に歪曲して、自分達に好都合に利用することができるのであります。

 こうなりますと大部分の国民はこの強大な執行権力に圧倒され、この体制においては権力に逆らうことはすべて非合法な反乱と見なされるのであります。奴隷支配の体制にとってこれほど望ましいことはないのであります。そしてこのことは奴隷支配の体制を法学理論面において完成させることを意味するのであります。執行権力が国家機構において至上の地位を占めること、つまりこれが立法権と司法権を簒奪することは制度的には次のような事象となって現れます。

 立法権を強奪した結果として、官僚が主要な法律案を起草し、白紙委任によって政令、省令及び通達が法律を補充し、場合によってはそれに優先することが定着します。また司法権を強奪した結果として、執行権力の管轄領域に広汎な司法権の不干渉部分が作られ、その機構内部に行政官だけで構成された司法権から独立した特別裁判所が設けられることが制度化されます。そして当然のことながら、行政裁判制度が構築される場合、立法者において奴隷支配を確立しようという強い意欲がある場合には、後者が確実に実行されることになります。

 ここで執行権力に司法権の不干渉地帯を設けようとする場合に持ち出される理屈の代表が「特別権力関係」なる詭弁であります。この屁理屈の欺瞞性と危険性については憲法論において何度も指摘しましたのでここではそれを繰り返すことはしません。しかし注意すべきことは名称は異なっていたとしても、この詭弁と同質の理論が他にも多々あるということです。その実例を挙げると、「統治行為論」、「部分社会の法理」、「内部行為論」、「営造物管理権」などというものであります。これらはいずれも「特別権力関係論」の衣は纏っていませんが、執行権力の一部分において、実質的にこれと同じことを達成し、更にそれを元首や立法権や私人の行為にまで拡張しようようとする試みなのであり、どれほど尤もらしい理屈を付けようと美辞麗句で飾り立てようと、その焼き直しなのであります。

 その意図するところは違憲・違法行為につき司法審査権を全面的に排除することに他なりません。これらはいずれもそれを是正しようとする訴訟の訴権についての訴えの利益の有無を審査する場合に密かに入り込んで、訴訟要件の欠如という純手続法的結論に紛れて司法判断を回避させようとする力として働くのであります。したがって「特別権力関係」なる愚論が叩き潰されたとしても、奴隷支配が企まれている国においては、これらの新手の理論が次々に顔を出し、死んだはずの「特別権力関係論」の子孫が事実上蘇生する可能性が常にありますから、十分な警戒が必要であります。

 またこの他に行政機関の内部に独立の裁判制度を構築するということも、奴隷支配者の側から執拗に追求されてきたことであります。これは例えば日本のように、憲法で特別裁判所の設置が明確に否定されているのに、司法手続外に不服申し立ての一種として行政審査手続が設けられ、しかも審査前置主義といった奇妙な制度によって巧妙に実質的行政裁判所が設置されるという形で実行されるのであります。また行政訴訟やそれに前置されるべき審査請求手続について短期の申し立て期間を設定するということも、行政事件についての訴権を事実上剥奪し、それによって行政に対する司法権の介入が阻止されるということも頻発します。

 それだけでなく最近では「行政権の第一次的判断権」なる得体の知れない理論が編み出され、表面上は訴権を一切制限せず、内実として専制行政を維持しようという悪質極まりない企みが登場しています。この異常なまでの執念を見ると、奴隷支配への情熱が如何に強いものであるかということを思い知らされます。

 以上に述べました奴隷支配を支える理論に対して、自由支配のための法学は真っ向からこれに挑戦するのであります。しかもこの挑戦は根底的で徹底したものでなければなりません。まず自由のための法哲学は、国家が倫理の実体などではなく、悪の誘惑となる権力の独占体であることに注意を促し、これを常時監視すべきことを提唱します。そして市民社会が欲望の塊などではなく、個人にのみ宿る良心を発現し、悪の危険性を孕む国家を相対化して、最終的にはそれを解消する場となるべき役割を負わせます。

 それ故に憲法論において述べたように、国家を主体とする公法には特別な意味などなく、それよりも公権力の行使に関する統治法と、公共物の利用に関する管理法の区別の重要性を対置させます。そして国家が統治法と管理法の双方に関わるのと同じように、市民社会も両法の適用を受けます。ここから市民社会の内部には独自の統治法があり、それによって国家に対して固有の政治的意思を押し付けられることが基礎付けられるのであります。

 また国家権力は立法権と司法権に分割され、執行権は原則的にこの両権力によって確定された命令を機械的に執行する権限を持つだけです。そして司法権が管轄する衡平法は優先的法カテゴリーでありますから、この面において立法権に対して常に優位に立ちます。しかし衡平法は具体的な適用事例において個別化されるものでありますから、司法権の優位性は立法権を司法機関の下部組織として従属させることを要求しません。制度的に両権力は独立対等に向き合い、両者は元首によって統括されます。

 行政作用というものは純然たる執行権と、立法権の付属作用である実定法の解釈適用機関たる狭義の行政権に分属されます。狭義の行政機関においては、配分法は暫定的且つ一律に適用されるに過ぎませんから、配分法全体に優位に働く司法権によって常に干渉されます。なぜなら国家の行為は最終的には適法且つ正当でなければならず、正当性は司法権の承認なしには成立しないため、行政機関だけの法適用行為は必然的に不完全なものだからであります。

 そして憲法典制定者または立法者の決断によって、実定法たる配分法の解釈権限までが司法権に付与されている場合には、行政行為に対する司法審査の必要性は更に強化されます。(行為の配分法適合性を審査する権限は、司法権固有のものではなく、立法権が保持できますから、実定法の規定によってそれを司法機関に移転させることが可能であります。)また純然たる執行権力は合法的に確立された命令を実現するだけでありますから、合法性の一翼たる正当性を形成する司法権の関与を排除することは全く不可能であります。司法機関の関与なしに執行される国家の独立命令というものは、すべて権利保全のための暫定命令であって、それを行う高度な必要性がある場合にのみ緊急避難的に許容されるだけです。したがってこの独立命令の執行も暫定的なもので、後に必ず司法審査によってその正当性が承認されなければならないのであります。

 (元首が発令する独立命令はほとんどの場合高度の政治性を持ちますから、憲法の規定によって、その正当性の審査権限は司法権ではなく他の政治的機関に付与されてもよいでありましょう。他の機関に付与するのは、司法機関が必ずしも常設的ではないからです。これで元首の行為の正当性審査の機会が失われる恐れがあるためです。勿論この機関は司法権と同質的なものでなければならないでしょう。そして「統治行為論」のような元首の行為の正当性審査を排除する考え方は法の支配の原理からあり得ません。)

 即ち自由支配体制においては、すべての行政作用に関して司法審査の全部または一部を排除するような制度やそれを正当化する理論は無効であり、直ちに粉砕されなければならないのであります。このことは当然行政訴訟の制度にも反映します。まず前述しました「特別権力関係論」なるものや、そのコロラリーは全く取るに足りない暴論として処理されます。これらはすべて行政機関に付与された裁量権の範囲の問題に解消されます。「統治行為論」は元首について、「内部行為論」は立法機関について、それぞれ与えられた権限行使の合法性有無の問題に置き換えられるのであります。

 この元首や立法機関の権限は広義の行政作用にも属さず、国家機構の基本を構成するものでありますから、当然その裁量範囲は広くなります。したがって結果的にその行為が適法とされる機会が増えますから、合法性が承認される事例も多くなるでありましょう。またこれらの機関の行為は行政作用でないため形式的には行政訴訟の対象とはされません。しかし国家の全活動には合法性の具備が要求されますから、これらの機関の行為についても当然司法審査は必要で、この場合憲法訴訟といった特別な事件となる場合が多いでしょう。したがってこれらの機関の行為が司法審査の枠外にあるという結論はどこからも出てきません。

 また「営造物管理権」については管理法の適用があるため、それは一般私人の財産権行使と同じものとなりますから、その合法性を審査する場合、手続的に民事訴訟として扱われるだけです。この手続が法制度として行政訴訟に属せしめられているときであっても、それは形式上のものに過ぎず、実質はあくまでも民事事件です。そして「営造物管理権」が成立する公物については、その管理処分権が独特の制約に服するため、私人の財産権とは異なった面が幾分かあることは確かですが、それが司法権を排除するような対象でないことは間違いありません。

 事実上の行政裁判所である不服審査手続を設けることは、自由支配の理念に照らしても、それ自体不法ではありません。しかしその人員構成を行政機関に所属する者に限定することはやや問題があります。また審査前置主義を広汎に設定することも同じように疑問です。そして審査や出訴の期間を著しく短期に設定することは、事実上司法審査を手続的に排除するものとして当然に無効とされるべきでありましょう。

 この場合どの程度の期間が必要であるかを決定するとき、参考になるのは前述した形成権の行使期間でありましょう。もしこれよりも短い期間が設定されていたとすれば、それは裁判を受ける権利の侵害と評価されなければなりません。したがって衡平制度上に設けられた形成権の行使期間が平均して3年である場合には、これより短期の出訴期間の定めは自由支配に反するものとなります。

 

 ② 司法審査の対象としての行為性

 

 上述しました、事件の性質や機関の種類によって司法権の限界を画する制度や理論はすべて自由支配の原理に反するものであります。しかし事件の対象そのものに内在する性質によって司法権の枠外に置かれるという事態はあり得ます。それは司法権による正当性または合法性の審査の対象になるのは行為であるということから来る制約であります。行為でないものはその適法性と正当性を与える条件との適合性を判定する材料も存在しないので、合法性の審査もできません。つまり行為性のないものは初めから司法審査の対象とならないということなのです。これは行為が国家によってなされた場合にもそのまま当てはまります。行為とはある者が他人に対して法的または事実的な力を現実に及ぼすことであります。したがって想念とか自己準備活動といった、他者に何の力も与えないようなものは行為ではありませんから司法権は及びません。

 (日本法学は「内部行為」なる概念を立て、行政行為などが計画の策定に留まっている場合、これに行政訴訟の適格性を否定することで実質的に司法審査の対象から外しています。しかし自己準備活動とは異なって、計画の策定とは公権力行使の条件を探求・定立しているのであって、これを執行しないという特別な事情がある場合を除いて、執行の予定規準の制定でありますから、その適用対象が特定された段階で司法審査の対象となり得る行為性が具備されたと考えられます。

 なお上述しましたように、立法機関は適用を予定される配分法の形式的内容を定めるだけであり、その活動は純然たる「内部行為」と呼ばれるのに相応しいものです。またその適用と執行は司法権や執行権に委ねられているのでありますから、適用対象の特定もありません。そのため立法機関の「内部行為」は司法審査から除外される場合もあり得るでしょう。尤もその内容が一義的に違憲性を持つ場合には立法がなされた段階で司法審査が可能になるでしょう。行政機関の「内部行為」についてはその準立法的作用を考慮しても、司法審査を除外する条件を全く欠いているのであります。)

 国家機関を構成する場合、その人的組成を決定する選挙やその他の任命行為は国家の自己準備活動あるいは行為の前提構成でありますから、この内容の是非については司法審査はなされません。また物的組成行為でも、予算の内部分配による公金の割り当てや、既得の公共物を国家が自己の公用に供する場合については同じことが言えます。そしてこれらの人的及び物的組成行為に条件を設定することは自己準備活動の具体化ですから、その是非については同様に司法権は及びません。ただ解任や私有財産を公的に収用する場合には、被解任者または被収用財産に権利を有する者に対しては行為性を持ちますから、これは当然司法審査の対象となり得ます。

 (議会の解散のように所属議員の身分を一挙に失わせる行為は解任の一種でありますが、全議員の身分を一律平等に奪うものでありますから、その実質は解任ではなく不確定任期の指定条件と考えられます。したがって議会解散も国家の自己準備活動の一種であって、その是非は司法審査の対象にならないと解されます。)

 国家の機関内部に留まる自己準備活動であっても、その活動を構成しまたはそれを受ける各機関に独立の利益保持が認められている場合には、他の機関に影響を与える限りで行為性を持ちますから司法審査がなされることになります。機関に独立の利益保持を認めるかどうかは立法者が決定することになります。(連邦制における州政府であるとか、国家とは別系統の人事権を持つ地方公共団体のような、国家機構の内部で強力な自治権が与えられている機関には当然この独立の利益保持が認められたと解されます。また公務員の任命について、被選任者本人には当然に独立の利益があると考えられることになります。)

 また各組成活動に付された法的条件に合致するかどうかということは、適法性具備の問題となりますから、当然適法審査の対象にはなります。したがって適法性の審査権が司法権に吸収されている場合には、この問題について司法権が及ぶことになります。それ故に例えば、公務員の就任の資格に一定の学歴を条件として要求することは司法審査の対象になりませんが、就任の適格性が問われる特定の者について、就任の条件とされている学歴を有していたかどうかが争われているときはその対象になります。

 ただ適法審査は実定法への適合性を争うものであり、司法権固有の権限ではありません。したがって憲法典制定者または立法者がこの審査権を司法権から除外したり、審査そのものを不要とすることは可能であります。そのため例えば、国会議員の資格争訟についての適法性の審査権を所属議院に留保したり、公務員試験の採点結果についての適法性審査を司法権に委ねないことが、憲法または法律の明文によって規定されている場合には、当然これらに関する司法審査権は排除されたことになるのです。

 ただこの場合でも、司法権は正当性の審査権は当然に有しますから、国家のある行為の適法審査権が免除されていても、この権限行使は妨げられません。したがって例えば、公務員の任命行為に正当性がなければ、司法裁判所に無効または取り消しを訴求することができます。

 以上に述べました、行為性がないために司法権が及ばないという事例は、例外なく妥当するものでありますから、これを司法権の絶対的除外事由と定義するのが適当です。これに対して条件付きで司法権が及ばない事例というものが考えられます。これは行為性が認められたとしても、それが純然たる利益の付与でしかない場合であります。この場合、行為の効果を受ける者はそこから何らかの影響を受けるのでありますが、その内容には何の不利益もないわけですから、司法権の行使をわざわざ求める必要性が認められないのです。したがって例えば、一定の公共用物の利用権を無償で授与された者は、その公共用物の提供の是非について司法審査を請求することはできません。

 (これに対して、今までに無償の自由利用を許されていた公共用物が廃止された場合には、その是非についての司法審査は可能であります。ただそれが廃止されたとしても、交換的に代替の公共用物が提供されている場合、または公共用物収去の代償が適正に支払われている場合には、利益授与行為の態様が変化したに過ぎないと評価されますから、司法審査は排除されます。また私有財産が公用収用された場合には、収用の必要性が認められ且つ被収用財産と支払われる補償の間に対価的適正性があれば同じことになります。尤もこの場合、代替提供物の適格性、収用の必要性または代償もしくは補償の適正性に争いがあれば、これには司法権が及ぶのは言うまでもないことです。)

 ただこれは行為の効果を受ける者についてだけ言えることであって、それ以外の者については成立しません。ある利益付与行為によって新たな損失を被る者にとって、それは負担が課されたと同じことであります。またある利益を付与された者と同等の資格を有する者は、その行為によって自己が受けるべき受益行為に不利な影響を受ける場合があり、そのときには彼に対して負担が課されたと見なすことができます。このように一方的受益行為の直接の相手方を除いて、それによって不利益を受ける可能性を有する者は、それに対する合法性の審査を司法権に要求することができるのであります。この意味で利益付与行為は司法権の相対的除外事由に過ぎないのであります。

 この命題の否定形として、ある者に一方的な不利益を課す行為には無条件に司法権が及ぶということが導かれることになります。一方的利益付与行為であったとしても、それが実定法の規定によって受益者の権利として構成されている場合には、国家はそれを提供する義務を負うことになりますから、それを与えないことは権利者に対する侵害として一方的な不利益を課すことを意味し、ここには常に司法権が及ぶことになります。なお利益付与行為の反対給付として相当な負担が課されている場合には、その負担が現実に存在する限り単純な利益付与ではありませんから、給付を受ける者において司法権を排除することはありません。

 (反対給付が受益に対して過少である場合には全体として一方的受益と見なされるべきであります。また租税負担は国家機関全般の経費を贖うものですから、受益を原因とする特別税が課されていない限り、ここで言う反対給付たる負担には該当しません。ただ反対給付の過小性や租税の特別性が争われている場合には、それについて司法権は当然及びます。)

 利益付与と反対給付たる負担の支出が国家との契約によって設定され、受益者において負担の受容を自由に選択できる場合には、この契約を締結しない限りその効果は一切発生しませんので、ここには行為性がないことになり司法権は絶対的に排除されます。例えば、ある公的施設の利用につき使用料金が設定される場合、その施設を利用するかしないかは利用者の選択に委ねられていますから、その是非について司法権は一切及びません。

 尤もこの場合、契約を締結してしまったときには、当該契約の事項が守られているかどうかは適法性審査の対象になり、契約違反があった場合にはそこに侵害行為が発生することになりますから、一方的な不利益が発生し、司法権が当然に及びます。そしてこれが民事訴訟と扱われることについては多言を要しないでしょう。

 (日本法学の世界では、公権力を行使する主体とこのように契約を締結した場合、一方的強制性がないとか、権利関係の形成がないとかの理由で所謂「処分性」が認められないため行政訴訟の対象ではないという議論がなされています。しかし行政訴訟の要件を欠くことと司法権の対象になるのかということは別の問題であります。

 それ故に日本法学の「処分性」の理論を認めたとしても、それは民事訴訟の対象になることが肯定されるのであって、司法権からの除外を意味しません。ここでもし公権力の主体には行政訴訟しかなく、その否定が直ちに司法審査の全否定に繋がるという論理が用意されているのであれば、悪質なレトリックであり、前述しました公法・私法二元論の最悪の応用例と言えるでしょう。)

 契約設定条件の全部または一部が実定法によって規定されている場合も事情が異なることはありません。利益給付に伴う負担の支出が契約によって設定されるものであっても、提供される利益が生活上必要不可欠であって、且つ国家以外にはそれを提供できる者がいない場合は、公的独占状態が成立していて、その受益契約を締結する自由は実質的に存在しませんから、反対給付たる負担は一方的に課されたものと同視することができます。したがってこれについては、負担の過小性や租税以外の負担が存在しないことが明らかでない限り、常に司法権が及ぶことになります。例えばごみの回収代金の設定といったものは、明らかにこれに該当することになりますから、その是非については司法権が及ぶ場合が考えられるのです。

 また行政訴訟の枠組みを超える問題ですが、日本法学は所謂「部分社会の法理」なるものを編み出し、学問の自由、信教の自由、表現の自由などを担う人権制度たる、大学、宗教団体、政党などの組織における内部紛争を司法権が及ばない領域に設定しようとする法理論であります。しかしながら人権制度のための組織の内部紛争であっても、構成員の身分の得喪や地位の重大な変動について、その原因となった行為の合法性の審査をなし得ないという事態を一般的に想定することはできません。

 そして日本の判例のこのような事項については人権制度内であっても実際に司法審査を認めているのでありますから、「部分社会の法理」なる理屈は最早空理でしかなく、速やかに学問的な有効性も否定されるべきでしょう。この理論は上述しました「特別権力関係論」の変形焼き直しの最も悪辣な例と言えるでしょう。

 以上のように司法権の限界とは、行為性または一方的利益付与性の有無を、実定法や契約との関連で細かく考えていかなければならないのであり、「内部行為論」とか「部分社会の法理」とか、「営造物管理権」などといった粗雑な理論では到底妥当な結論を導くことなどできないのであります。(尤もこれらの理論が粗雑なのは、その論者において、司法権の限界を学問的に究明しようとする意図などなく、奴隷支配を確立するために、専制的な行政権の行使への司法権の関与を排除しようという政治的意欲しかないからなのです。)