【忠誠編】昭和の金融・外交から学ぶ令和の政治経済戦術は | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

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世の中に必要なものは必要になります。
例え、今は笑われてもです。
限界が来るものについては、捨てなければ生きていけないからです。

本日は昭和の日であるので、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ことをしてみたい。

 

昭和が始まる以前、大正時代末期の首相は加藤高明であった。加藤内閣はそれ以前に非衆議院議員である者が三代続けて総理大臣をやっており、これに反発する形で、「憲政の常道」を掲げて議会を占める三つの党がこれを打破した。これにより憲政会総裁(党首)である加藤高明が総理大臣になり、やがて次の憲政会総裁である岩槻礼次郎が総理大臣となり、この若槻内閣の途中から昭和が始まる。当時は保守二大政党制で、野党は立憲政友会であった。

 

若槻内閣での外務大臣は幣原喜重郎で、戦後に首相になる人である。この憲政会の政権は協調外交の路線を敷いており、当時の中華民国では蒋介石が北伐を行っていた。昭和2年のことである。これに対して日本政府は介入しない路線をとったのである。それについては軟弱外交と呼ばれ、軍部や野党・政友会からの不満があった。しかしそれでも幣原外相は平和のために中国に対して不干渉を貫いた。これが後々になって仇となる。

 

そんな折、大正時代に起きた関東大震災で震災復興のために震災手形というのを出していたが、片岡直温大蔵大臣の発言により銀行の取り付け騒ぎが起きてしまう。片岡蔵相は当時存在していた東京渡辺銀行が破綻したと発言してしまい、銀行には預金者が殺到してお金を下ろしていく。銀行にはお金がなくなってしまい、企業に貸し付けることができなくなり、会社の連鎖倒産が起きた。ここに金融恐慌が発生する。

 

さらに当時は台湾が日本の領土であったわけだが、台湾を支配するために作った台湾銀行が鈴木商店(大企業)へ不正融資をしており、債権回収ができなくなったために台湾銀行が休業となった。台湾銀行は、日本の新たな領土である台湾のために必要な銀行であるため、破綻させるわけには行かず、救済緊急勅令を昭和天皇に求めたのである。実際、決めるのは昭和天皇ではなく枢密院であった。当時の枢密院は、幣原外交の協調路線に対しての不満があったためにこれを拒否した。そうして若槻内閣は総辞職に追い込まれる。

 

代わって立憲政友会の田中義一内閣が誕生する。田中内閣の大蔵大臣は高橋是清元首相である。高橋蔵相は、21日間のモラトリアムを設けて、その期間は日本銀行の非常貸し出しのために支払い猶予令を出して、どの銀行からもお金を下ろせなくした。こうして金融恐慌は収束する。

 

そして外交面では、強硬路線となり中国に進出していく芽をここで作ってしまう。やがて政党内閣の時代が終わってしまい、5.15事件で犬養毅首相が暗殺されて以降は、軍部・官僚による内閣が構成され、衆議院議員が総理大臣になることはなくなっていく。

 

 

 

 

令和の我々はここから何を学ぶべきか。昭和の日は、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日なのであるからこれを考えてみたい。

 

まず、取り付け騒ぎについてであるが、当時は現金信仰が今よりも激しくある。現代においてはもしも銀行に紙幣がなくなったとしたならば、電子マネー・クレジットカードで決済し、通帳の数字上でなせばよい。年々、現金で支払いをすることが少なくなってきており、そのうち日本銀行券というのはなくなるだろう。そのようにすることが安全であるということがやがて国民が理解してくると思う。ただ、これに加えて減価する通貨のシステムや決済税の仕組みを導入することが大事だ。この方法はやがては戦争を防止するものでもあるからだ。

 

次に、枢密院へお伺いを立てねばならず、その枢密院が財政・金融政策ではなく、外交政策に口を出してきたことが問題であった。現代においては枢密院に相当する機関は存在しないし、天皇は政治に介入できない。そのために問題はないと考えることもできるが、なにかの政策を実行しようとする際に国会の承認を得なければならないということはある。そこで協調外交をしてきた路線を変更せねば承認しないと、与党が言うことは可能である。その場合、今のような岸田内閣を考えたらわかりやすい。上川陽子外務大臣は他国からの圧力に対しておいそれと従ってしまう傾向が非常に強い。これに対して不満を持つ人々が岸田内閣を倒して、強硬路線を強いる総理・総裁を望むことは十分にありうる。現在のところ、高市早苗国務大臣はその筆頭候補に挙がるだろう。

 

単に強硬路線をするだけならいいが、それが戦時に影響を与えるのかどうかということである。総じて、軍人というのは戦争をやりたがらない。戦わずして勝つのが最善だからである。だが文民の、特に自ら喧嘩もしたことがないような自称保守・タカ派は戦争をけしかけるものである。「俺なら国のために戦える」と口では言う。

 

ただ、歴史を見ると犬養内閣で政党政権が終わって、斎藤実内閣以降の首相はほぼ全てが軍人・官僚であった。いったん火が付いたものはなかなか抑えられないというのがあるだろう。よって、昭和から学ぶ教訓というのは文民統制をいかにして国民の手中に収めるかということもあるが、その国民が熱気に沸いて戦争に突っ込んでしまうということもありうるだろう。

 

我が国は現在、昭和の時とは逆に、中国に侵略されそうな環境にある。このような時代において、岸田首相・上川外相のような外圧に負けるような外交、それは協調外交というよりは言いなり外交であるが、これには不満が多い。このような時には熱狂的な民族主義が沸き上がることも注意しなければならないことである。つまり、左に振れているものを右に振らせる必要があるが、その振り幅を考えながら政治をやらなければいけないということである。