松下幸之助『道をひらく』を読む(26)手さぐりの人生(その1) | 池内昭夫の読書録

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 めくらさんは目が見えないのに、なかなかケガをしない。むしろ目の見える人のほうが、石につまずいたり、ものに突き当たったりしてよくケガをする。なまじっか目が見えるがために、油断をするのである。乱暴になるのである。(『道をひらく』(PHP研究所)、p. 16)


 「めくら」という言葉は、今は「放送禁止用語」である。この本が出版された1968(昭和43年)頃は、放送禁止だなどとうるさい話はなかった。ある意味大らかな時代であった。

 私は「言葉狩り」反対論者である。何でもかんでも「差別」だと言って、言葉の使用を禁止しようとするのは、言葉を貧困にすると言う意味で反対だ。

 言葉に差別的な意味が含まれている場合、特に公共の電波に乗せて、不特定多数の人たちにこの差別語を使用することは避けるべきではあろう。が、日常的な会話において、つまり、特定された人たちの間だけにおいて、「それは差別語だ」などといちいち話の腰を折る必要がどこまであるのか疑問である。

 言葉はその人が生きた時代と共にある。だから、昔は問題にされなかった語が今では用いるべきではないからといって、今の価値観を年長者に押し付けるかのごとく、「それは差別語だ」などと鬼の首を取ったかのように話を中断することは果たして正しいことなのか、それは昔という時代の、そしてその時代を生きた人の否定ではないかという疑問が湧くのだ。

 勿論、言葉の選択には十分な注意や配慮が必要であろう。つまり、TPO(Time・Place・Occasion)を弁(わきまえ)えろということだ。因(ちな)みに、TPOは和製英語なので、昔、江戸時代の儒学者中江藤樹(なかえ・とうじゅ)流に言えば、「時処位」ということになるだろう。つまり、「時」と「場所」と「身分」を弁えた言葉の選択が必要だということだ。

 が、時と場合によっては、差別的な言葉を用いるべきときも無しと私はしない。それは口喧嘩のときである。そもそも口喧嘩自体が不要だとする人もいるだろうが、いきなり暴力に訴えるのではなく、否、暴力自体を否定する意味でも、怒りを込めた言葉の応酬は、互いに本音をぶつけ合うという意味でも非常に重要なのではないかと思う。

 差別的な言葉を可能であれば避けるに越したことはないけれども、それを選択し使う「自由」はあってもよいのではないかというのが私の考えである。が、そこには「責任」がなければならない。後先考えず、ただ暴力的な言葉遣いを行うということを認めるわけではないので誤解なさいませんように。