『西郷南洲遺訓』を読む(62)人が見ていないところを戒慎し、聞いていないところを恐懼する | 池内昭夫の読書録

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21-2 総じて人は己(おの)れに克(か)つを以(もっ)て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能(よ)く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七ハ迄は能く成し得れ共、残り2つを終り迄成し得る人の希(ま)れなるは、始は能く己を慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕(あらわ)るるなり。功立ち名顕るるに随(したが)ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛(ゆる)み、驕衿(きょうきん)の気漸(ようや)く長じ、其成し得たる事業を負(たの)み、苟(いやしく)も我が事を仕遂げんとてまづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己れに克ちて、睹(み)ず聞かざる所に戒慎(かいしん)するもの也。

(概して人間というものは己に克つことによって一人前(いっちょまえ)に成功し、己を愛することによって失敗するものであるぞ。よく昔からの人物を見るがよい。事業を始める人は、その事業の10のうち7、8まではよくできるが、残りの2を終わるまでなしうる人はまれであるのは、はじめはよく自分を慎んで仕事も丁寧にやるから成功もし、名声も現れてくるのである。

 ところが、成功して有名になるにしたがって、いつの間にか自分を愛する気持ちがおこり、おそれ慎むという気持ちが緩んで、おごりたかぶる気分が強くなり、そのなしとげた仕事を力としてあてにし、おれは何でもできるんだという過信のもとにまずい仕事をするようにいたって、ついに失敗するものなのである。これはみんな自分で招いた結果なのである。したがって、つねに自分にうち克って、人が見てないところ、人が聞いていないところでも自らを慎み戒めることが重要なのである)

 最後の<人が見てないところ、人が聞いていないところでも自らを慎み戒める>話が『中庸』にある。

道は須臾(しゅゆ)も離る可からざるなり。離る可きは道に非(あらざ)るなり。是の故に君子その睹(み)ざる所を戒愼し、その聞かさる所を恐懼(きょうく)す。隱れたるより見(あら)はるゝは莫(な)く、微(かすか)なるより顯(あらわ)なるは莫し、是の故に君子その獨(ひとり)を愼むなり。

 血氣動作に見はれぬ所を獨と云ふので、必ずしも燭居のみでなく。たとひ衆人稠座(ちゅうざ)の間に在りても、自分獨り知り、人の未だ知らざる所、卽ち一念發動の所を云ふ。―『中庸』

(道は天性の自然に率(したが)ふものである。而(しか)して天下性なき物は無いので萬物皆道を具有せざるはなく、道は天地に塞(ふさが)り古今に亘(わた)りて在らざるなく、しばらくも之を離るゝことは出來ぬものである。若(も)し筍且(かりそめ)にも離るゝことが出來るものならばそれは道とは云へず、叉性に率ふものとも云ふことが出來ぬ。故に君子は常に敬(つつし)み畏(おそ)れて修養を心がけ、目に見る所あるを待つて後始めて戒(いまし)め愼まず、その未だ見ざるの時に在りて戒め愼み、耳に聞く所あるを待つて後始めて恐れ懼れず、その未だ聞かざるの時に於て恐れ懼れ、寸時(すんじ)も天性の自然を失はざることをつとめる。幽暗(ゆうあん)の虞(おそれ)、微細の事は、その痕跡未だ現はれざれども、意念(いねん)一たび發して善意の機(はずみ)既に動き、必ずやがては外に露見せざれば止まず、所謂(いわゆる)中に誠あれば外に形(あら)はるゝものである。

 人未だ之と知らざれども、自分は獨り明かに之を知り、天下の事此より顯著なるはなきものである。故に君子は常に戒愼恐懼(きょうく)して人の知らざる所、自分獨り知る所に就(つ)いて尤(もっと)も之を憤しむのである)― 宇野哲人『四書講義 中庸 全』(大同館蔵、pp. 61ff)