『西郷南洲遺訓』を読む(25)君子と小人の違い | 池内昭夫の読書録

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6 人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却(かえっ)て害を引起すもの也。其故(そのゆえ)は開闢(かいびゃく)以来世上一般十に七八は小人なれば、能(よ)く小人の情を察し、其長所を取リ之を小職に用ひ、其材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ひざればならぬもの也。さりとて長官に居(す)ゑ重職を授(さず)くれば、必ず邦家を覆(くつがえ)すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。

(人材を採用するときにあたって、君子(立派な人)と小人(凡人)との区別をあまり厳しくすると、かえって禍(わざわい)を大きくするものである。その理由は、この世がはじまって以来、世の中の10人のうち七、8人までは凡人だから、こういう凡人の心情を思いはかって、そのいいところを取って、これを下役に使って、その持っている才能や技能を十分発揮させることが重要である。藤田東湖も言っていました。「凡人というものにはそれぞれ才能とか技能があって、用いるには便利なものであるから、ぜひ仕事をさせなければならないのである。だからといって、これを上役に据えたり重要な役職に就(つ)かせると、必ず国をひっくり返すようなことにもなるから、決して上に立ててはいけないものである」と)― 渡部昇一『「南洲翁遺訓」を読む』(致知出版社)、p. 77

《この場合の小人(凡人)と君子(立派な人)との区別は非常に重要ですが、しかし実際にはその区別は難しいと思います。この場合の君子は、南洲の言う意味での人格者ですから、必ず重要な地位に就けなければいけない。ところが、小人というのは人格者でなくて技芸があるもの、今の言葉で言えば、人格はともかく受験技術がうまい人で、受験の技芸によって権力のある地位に就くわけです。戦前であれば、官僚のほかに軍官僚というものになります。戦後であれば、公務員になる。けれども、これは本当は君子でないと困ります》(同、pp. 77f)

 「君子」とは、知と徳を兼ね備えた人のことを言うのであろう。だとすれば、幾ら知に長(た)けてはいても徳が伴っていなければ「小人」ということになろう。

《受験技術の立派な人はみんな使い途(みち)がある。しかし、その上に立つ人は、もっと高所から人格的な判断を持ってやるべきである》(同、p. 78)

 自らの能力を発揮するだけでよいのであれば「小人」にでも出来るが、「適材適所」に人を配し、能力を存分に発揮させるのは「君子」にしか出来ない芸当だということである。

《子曰はく、君子は徳を懐(おも)ひ、小人は土(ど)を懐ふ。君子は刑を懐ひ、小人は惠(けい)を懐ふ》(『論語』里仁第4)

(君子は心の徳を存することを思って最高の善に到達しようとし、小人は心身の安楽なところを思ってこれに溺れる。君子は刑の畏(おそ)るべきことを思って自らその身を守り、小人は利の欲すべきを見てこれを貪(むさぼ)る)― 宇野哲人『論語』(講談社学術文庫)、pp.100f