いつものお寺には

毎月12日、回向へと出向く私たちを迎えてくださる尼僧さんがいらっしゃいます



「お久しぶりです

 年忌法要も済まされましたね」



1月は体調不良のため私は留守番で


2月は七回忌法要直後にあたり、きっと外出すら難しいだろうと、前の月に12日の回向を依頼していたのに当日になると行きたくなって


でもお会いできず



時間を見つけては出かけていた朝勤や夕勤にも

しばらく行っていなくて


その方にお会いするのは3ヶ月ぶり



「お仕事は続けていらっしゃいますか?
 お忙しくされているのはとても良いこと

 お嬢さんもお父様も喜んでいらっしゃいます
 こんなことを言ってはいけないのですけどね

 …お顔を拝見できると嬉しいのですよ」



有り難いお声かけ



いつもお会いするだけで心が解れるのですが


娘の祥月命日だけでなく、私の仕事のこと、家族のことを憶えていてくださったなんて



言葉に詰まり涙が流れました




そんな私に尼僧さんが話してくださった

『かたじけない』と思う心について
忘れないよう書き留めたいと思います




仏教に興味のない方は

どうかこの先はご遠慮ください




『かたじけない』という言葉



恥ずかしながら私には

時代劇の武士や年配の男性が使う印象しかなかったのだけれど



調べてみたら仏教的な意味合いがあって



仏教の『慚愧』の心(自らの煩悩に気づき恥じ入る心)と、『有り難い』(有ることが難しい)という感謝が混ざり合った、深い『生かされている』実感を表す言葉



自らの小ささを深く感じると同時に
相手の尊い恩恵に涙する
感謝と畏れが含まれる言葉なのですね



人間は誰でも

現生だけでなく過去生においての罪も含めて

善と悪を併せ持っているけれど


それに気づいた時、振り返った時に

後悔ではなく反省をすることが大切


なぜなら、後悔からは何も生まれないけれど

反省は感謝へと繋がるから


その感謝の気持ちが

『かたじけない』という思いなのだそうです



そして

反省からは進歩、前を向く勇気も生まれる



「あなたが外へと目を向け仕事を始めたこと

 それを続けていること


 あなたの心の成長を

 誰よりもご先祖様が喜んでいらっしゃる


 いつもあなたの側であなたを見て

 いらっしゃるのですからね」







『諸行無常』

この世のすべてのものは一時的な条件によって存在しており、絶えず変化し止まることはない



そのウツロイやすさを受け入れられない


「変わってしまう現実」と

「変わってほしくないという願い」との

ギャップ


「ずっと同じであってほしい」と願う執着心が苦しみの根源となる




事後

娘の今を知りたい

この悲しみ苦しみ痛みのワケを知りたい

…と沢山の書物を読んだけれど


分かったように感じても言葉の真意を理解することは難しくて


「叶うものならあの頃に戻りたい」

「戻ってやり直したい」


そう叫び続けてきました



もちろん今だって娘に会いたいし
叶うものなら初めからやり直したい


でも、「もうあの子は戻ってこない」と理解し
「彼方では悩みもなく自分の選択に納得をし、穏やかに過ごしている」と感じる自分も居て


「少しでも娘の手助けになるのなら…供養のために…と私が手を合わせなくても、娘はもう大丈夫」だと、知らず知らずのうちに思い始めているから、お寺へ行く回数も減ってきているのかもしれません








7年目に入って初めての回向は

大勢の祈祷の方々に続いてわが家だけが供養



でも


享年15歳…の言葉が

今回は辛くありませんでした




娘との別れ


命には限りがあるという教え


新しい出会い




私は娘を喪い、わが身を引き裂かれるような絶え難い苦しみを経験してはじめて


『反省』と『感謝』の本当の意味を知ったのだと思います




まだまだなのですが


娘が私に遺してくれたものの尊さが


ぼんやりと見えたような…





娘に恥じないよう生きていきたいと

あらためて感じています





長文にお付き合いいただき

ありがとうございました