以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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志貴御県坐神社――古代ヤマト王権の聖地と磯城県主

初期天皇の皇妃出自氏族磯城県主

p.394
十市県主と春日県主について、『和州五郡神社神名帳大略注解』引用の「十市県主系図」には、孝昭天皇のときに春日県が改称して十市県になったため、春日県主を十市県主というようになったとある。

p.395
 春日県主が十市県主になったとする「十市県主系図」の記事は、記・紀の記載からも裏づけられるが、孝霊天皇の皇后ホソヒメについて『紀』の本文は、磯城県主大目の娘、一書は十市県主の娘とし、『記』は十市県主大目の娘とするところから、十市県主は磯城県主より分かれたとみるのが通説である。

p.396
 5代孝昭天皇の尾張連を除いて7代孝霊天皇までの皇妃は、すべて磯城県主系である。8代孝元から物部系の穂積臣と物部氏が登場するが、尾張連も『旧事本紀』では物部氏と始祖が合体しており(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)、磯城県主系も饒速日尊を祖とする系譜をもつ。つまり、先住氏族の代表とする饒速日尊系だけで8代の皇妃出自系譜を占めている[略]

p.397
 春日県主については、久安5年(1149)の『多神宮注進状』にも、綏靖天皇のときに神八井耳命が春日県に神籬磐境を立てて皇祖天神を祀り、春日県主の遠祖の大日諸命が祝[はふり]になったとある。そして、崇神天皇のときに、太[おほ]郷に社地を設けたので、旧名春日宮を多神社と称したとある。十市県主系図にも、大日諸命は「大社祝」とあるが、この「大社」は多神社である。『多神宮注進状』が、春日県は「後為十市県、十市県主系図参考スヘシ」と注しているから、平安末期には十市県主系図は存在していたはずだが、この系図を重視したいたのが多神社を祀る多氏であることは無視できない。


聖地としての「シキ」の位置

p.398〜399
 当社の冬至日没線は、水越峠の葛城側から見れば夏至日の出線になるが、磯城県主系の皇妃がかかわる2代から6代の伝承上の宮は、ほとんどが葛城地方にある。つまり、磯城の地と、宮のある葛城の地は、夏至と冬至の朝日と夕日を拝する地である。
 初代天皇だけが畝傍山麓の橿原宮であることは、この山が三輪(磯城)と葛城の冬至・夏至線の真中にあるまであろう。神武紀は橿原宮について、国の真中に都をつくったと記しているが、記・紀は、この宮の主だけをハツクニシラス天皇とはせず、シキの宮の天皇(崇神天皇)をもハツクニシラス天皇と書く。この2人のハツクニシラス天皇を結ぶ中間の天皇たちの大半が、シキ(十市)県主系の娘を皇妃としていることに、古代王権の真相が秘められている。