以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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比売許曽神社――漂着神としての新羅のヒメ神と古代信仰

「ヒメコソ」伝承について

p.456〜457
 『古事記』の応神天皇の段に、新羅の阿具[あぐ]沼のほとりで昼寝していた女に、「日の輝[かがやき][にじ]の如く、その陰上[ほと]を指し」、女は妊娠して赤玉を生んだとある。この赤玉は女となって新羅の王子天之日矛[あめのひぼこ]の妻となるが、ある日「吾[あ]が祖[おや]の国に行かむ」といって、小舟に乗って難波に来た。この天之日矛の妻を、『古事記』は「難波の比売碁曽[ひめごそ]の社に坐[ま]す阿加流比売[あかるひめ]神と謂ふ」と注している。
 『日本書紀』垂仁紀の注に載る、加羅の王子都怒我阿羅斯等[つぬがあらしと]の伝承には、白石が童女[をとめ]となり、阿羅斯等はこの童女と結婚しようとしたが、「求[ま]ぐ所の童女は、難波に詣[いた]りて、比売語曽[ひめごそ]の社の神となる。または豊国の国前郡に至りて、また比売語曽社の神となりぬ。並[とも]に二処に祭[いは]ひまつられたまふといふ」とある。
 『摂津国風土記』逸文には、新羅の女神[ひめがみ]が夫からのがれ、しばらく「筑紫の伊波比[いはひ]の比売島」にいたが、この島はまだ韓国[からくに]から遠く離れていないから、「もしこの島に居[ゐ]ば、男神尋[と]め来なむ」といって、ついに摂津の比売島に来たとある。この比売島で雁が卵を生んだという『古事記』の伝承は卵生説話のヴァリエーションであるが、「赤玉」「白石」も卵のイメージである。
 垂仁紀の「ヒメコソ」伝承にみられるのは卵生説話だけだが、応神記の伝承には、日光感精説話が入っている。
 「ヒメコソ」の「コソ」について、言語学者の金沢庄三郎は、新羅の始祖赫居世[かくこせ]の「コセ」と同じで、「コ」は「大」、ソは韓国をいう古語と解している[(1)]。「コソ」とは聖なる地、つまり「マツリゴトの場所」であり、マツリゴトを行なう人が「コセ」である。この言葉がとくに新羅・加羅とかかわることは、比売許曽の神を『古事記』が新羅の皇子天之日矛の妻、『日本書紀』が意富[おほ]加羅の皇子都怒我阿羅斯等[つぬがあらしと]の妻と書くことからもいえる。
 「コソ」が「社」(=聖地)であることは、『日本書紀』が社戸臣(天武紀元年7月)を渠曽倍[コソへ]臣(大化元年9月)と書き(『新撰姓氏録』は許曽倍臣)、社部(『出雲国風土記』の島根郡大領社部臣)が巨曽部(『万葉集』『続日本紀』)、許曽部(『続日本紀』)、渠曽部(『新撰姓氏録』)と書かれていることからも明らかである。吉田東伍は、「社戸[こそべ](部)」を「神事に奉仕する氏族」とみる。『延喜式』神名帳の河内国渋川郡の波牟許曽神社、丹比郡の阿麻美許曾神社、伊勢国三重郡の小許曽神社、近江国浅井郡の上許曽神社、出雲国秋鹿郡の許曽志神社の「コソ」も「社[コソ]」である。



「ナニハ」という地名

p.458
「オシ」は「テル」を強めた言葉であり、「ナニハ」に太陽の意味があってこそ「オシテル」の枕詞はいきるのである。

p.458〜459
 新羅上古の王室系譜は、始祖赫居世(「居世」は比売許曽の「許曽」)以来22代を記しているが、17代奈勿王以降から、ほぼ歴史時代に入り、実在の王名とみられている。奈勿王以降の新羅王(金氏)は、ほとんど「奈勿王……世之孫」と記されている。奈勿(nar)は太陽の意である。
 ナルは王名だけでなく土地名としてもある。『三国史記』の新羅の祭祀志に「第二十二代智証王、始祖降誕之地奈乙に神宮を創立す」とあり、新羅本紀の21代炤知王9年(487)条にも「春二月。神宮を奈乙に置く。奈乙は始祖初王の処なり」とある。奈乙には奈勿と同じく太陽の意味がある。[略]「ナニハ」もnar(→na)からきた地名ではないか、と私は推測する。


p.460〜461
 なお、「ナル」「ナレ」は古代朝鮮語では「川」の意でもある。新羅の初代王赫居世が降臨したのは、閼川[アレナレ]という河のほとり(河原)であった。「閼川」については高良大社の項でも書いたが、慶州の閼川の河原は、冬至・夏至の日の出遙拝線の基点である。


ヒメコソと下照姫

p.462
 下照姫は土着神であり、阿加流比売は渡来神である。[略]下照姫と阿加流比売は、はっきりちがう(土着と外来)神とみるべきである。むしろ、「アカルもシタテルも、タカテルも皆太陽光輝の形容である」と松前健が書くように、日妻的要素の共通性によって比売許曽神社の祭神名が変わったとみるべきであろう。

p.462〜463
 土着の外来のちがいはあっても、赤留比売(比売許曽)も下照姫も、日妻・日女としては、坐摩神社と日部神社の項で述べた幡梭姫(若日下部王)や木花開耶姫、多神社の天祖[あまつおや](ミシリツヒメ)、伊勢神宮と天照大神高座神社の天照大神(天照日女命)、宗像大社の市杵島姫、宇佐八幡宮の比売神、大帯姫と同性格である。ただ、難波の場合、天之日矛伝承とのかかわりから、日の御子の母神は新羅の母子神信仰の影響を強く受けており、その代表が比売許曾神なのである。


豊前国前郡の姫島・ヒメコソ神
p.463
豊前国国前郡のヒメコソ神社は姫島(大分県東国東郡姫島村)に鎮座する。この姫島(比売島)は祝灘のはげしく変わる潮流の交点にある。「ヒメコソ神」を『古事記』が「渡之神[わたりのかみ]」と書く理由である。[略]「渡之神」は、海の難所にいて航路を教える神である。
 『日本書紀』(一書の1、3)は、宗像三女神が筑紫の宇佐島に降臨したと書くが、『日本書紀』(一書の3)は、この宗像三女神は「道主貴」といい、筑紫水沼君が祀ったと書く。「道主貴」とは「渡之神」である。ところが、『肥前国風土記』基肄[き]郡姫社[ひめこそ]郷の条には、宗像の人珂是古が、ヒメコソ神を祀ったとある。珂是古が水沼君の祖阿遅古と同一人物であることは、宗像大社の項で述べたが、宗像―ヒメコソ―水沼君の、このようなつながりからみて、宗像三女神(道主貴)の降臨した宇佐島は、「渡之神」のヒメコソ神社が鎮座する姫島であろう。

p.464
豊前国は『隋書』に「秦主国」と書かれたほど秦氏系氏族の多いところであり、このことは、ヒメコソ伝承に豊前の姫島が登場する最大の要因の1つであろう。


姫島とアカルヒメ

p.466〜467
 ヒメコソ神を祀った姫島について、仁徳記は次のように書いている。
  一時[あるとき]、天皇豊楽[とよのあかり]したまはむとして、日女[ひめ]島に幸行[い]ましし時、その島に雁[かり][こ]生みき。ここに建内宿禰[たけのうちのすくね]を召して、歌をもちて雁の卵生みし状[さま]を問ひたまひき。その歌に曰[の]りたまひしく、
   たまきはる  内[うち]の朝臣[あそ] 汝[な]こそは 世[よ]の長人[ながひと] そらみつ 倭の国に 雁[かり][こ][む]と聞くや
  とのりたまひき。ここに建内宿禰、歌をもて語りて白[まう]ししく、
    高光る 日の御子 諾[うべ]しこそ 問ひたまへ まこそに 問ひたまへ 吾[あれ]こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生と 未[いま]だ聞かず
  とまをしき。かく白[まう]して、御琴を給はりて歌曰[うた]ひけらく、
    汝[な]が御子や 終[つひ]に知らむと 雁は卵生[こむ]らし
  とうたひき。こは本岐[ほき]歌の片歌なり。
 また、仁徳紀は、単に「茨田[まむた]堤に、雁[かり][こう]めり」と書き、同じ「ホキ歌」を載せているが、要するに、日女島は茨田堤の近くにあった。
 平野邦雄は、日女島で雁が卵を生んだ話は、新羅や加羅の始祖王誕生の卵生説話を「帰化人」が5世紀初期にもたらしたものとして、その「帰化人」を秦氏とみているが、茨田堤を築いた茨田氏と秦氏が関係深いことは、拙著『日本古代試論』や『古事記成立考』などで詳述した。


p.468
 姫社のアカルヒメには、渡神・日女・織女の性格と共に、常世岐姫の性格がある。常世岐姫の「常世岐」は一般に「トコヨキ」と訓まれるが、「トコヨフナド」という訓もある。「岐」は境の意で、「フナド神」は道祖神である。渡の神のヒメコソは、海と陸の境におる「岐」の神として「トコヨノフナド姫」でもある。
 このヒメコソ神を『古事記』は「アカルヒメ」と書く[略]「太陽女神」というよりは「日妻[ひるめ]」とみるべきであろう。三品彰英は「神妻である童女・アカルヒメの原態は巫女すなわち『祀る者』であり『祀られる神』であるアメノヒボコは巫女に招禱される存在であるが故に、彼女の到るところに従って、その後を追わねばならなかった。 歴史的にいえば、巫女の宗儀が伝来し、彼女らヒボコ族の移動に従ってアメノヒボコの遍歴物語が構成されることになったのである。なお、巫女である『祀る者』が『祀られる者』に昇華する時、巫女はヒメコソの社の女神となる」と書いている。私も、アカルヒメの性格については三品説に同調したい。
 この点で、アカルヒメはアマテラスと同性格であり、この日妻は日の御子の母として母神的性格をもつ。アカルヒメは、アマテラスやオキナガタラシヒメ(神功皇后)の原像といえよう。
 オキナガタラシヒメは香春神社の祭神として「カラクニ」を冠されているが、『古事記』は、オキナガタラシヒメを新羅の王子天之日矛の後裔とする。つまり、オキナガタラシヒメは、ヒメコソ社のアカルヒメとダブルイメージであるが、アカルヒメの「アカル」には太陽光輝の意味があり、アメノヒボコも太陽祭祀にかかわる名とみられている。