以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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和爾坐赤坂比古[わににますあかさかひこ]神社・和爾下[わにしも]神社――ワニ氏の性格と古代祭祀


祝人と仲臣

p.428
神武紀には次のような記述がある。
  層富県[そほのあがた]の波哆丘岬[はたのをかさき]に、新城戸畔[にいきとべ]といふ者有り。又、和珥の坂下[さかもと]に、居勢祝[こせのはふり]といふ者有り。臍見[ほそみ]の長柄[ながら]丘岬に、猪祝[ゐのはふり]といふ者有り。此の三処の土蜘蛛、並[とも]に其の勇力[たけきこと]を恃[たの]みて、来庭[まう]き肯[か]へさす。天皇乃ち偏師[かたいくさ]を分[わ]け遣[つかは]して、皆誅[ころ]さしめたまふ。又高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の爲人[ひととなり]、身短[むくろみじか]くして手足長し、侏儒[ひきひと]と相類[あひに]たり。皇軍[みいくさ]、葛[かづら]の網[あみ]を結[す]きて、掩襲[おそ]ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号[なづ]けて葛城と曰[い]
 「土蜘蛛」は、層富(添)の波多・和珥と臍見の長柄、葛木の高尾張邑にいたとあり、和珥に居勢祝、長柄に猪祝がいたとあるが、波多の新城戸畔も「祝[はふり]」であろう。「祝」はシャーマン、祝人のことで、その原義は「羽振り」であるが、同時に、フイゴ、タタラにかかわる「羽鞴[ふ]り」でもある。神武紀は高尾張邑に「赤銅[あかがね]の八十梟[やそたける]」がいるとも書いている。

p.429
 高尾張は尾張氏、長柄は物部系の穂積氏だが、これまでも繰り返し述べたように、尾張氏と物部氏は、『旧事本紀』では始祖が一体化している。また、ワニ氏と物部氏は共に石上神宮にかかわっており、記・紀の系譜では、ワニ氏の始祖天足彦国押人命(天神帯日子命)は尾張連の祖の妹を母としている。このように、土蜘蛛の居住地とされる地域は、尾張連・物部連・和珥臣にかかわる地である。

p.430〜431
 土蜘蛛がいたのは、波多[ママ]丘岬・和珥坂下・長柄丘岬だが、岬[さき]も坂も境界である。崇神紀に、「忌瓮[いはいへ]を以て、和珥の武鐰坂の上に鎮坐[す]う」とある。忌瓮を境界祭儀に用いることは、鹿島神宮などの項で述べた。ワニ臣が改姓した春日臣は、『新撰姓氏録』によれば、糟[かす]を積んで垣としたので糟垣臣といい、のちに春日臣になったという。垣は境界を示すものである。折口信夫は、柿本氏は「垣本」氏で、「布留氏同様、地境において、霊物の擾乱を防ぐ」氏族とみる。赤坂比古は、春日氏・柿本氏らの性格にかかわる名といえる。
 櫟本の和爾下神社の地は、奈良坂を経て北の山背・近江へ、都介野[つげの]を経て東の伊賀・伊勢へ行く道の基点であり、上ツ道と竜田道が交わる「衢[ちまた]」であった。櫟井は市井で、櫟本は市本である。物と人とが交流する地股[ちまた](境)を市という。ワニ坂・赤坂・市井・市本があるのは、この地が古代の大和の北の境界として、重要な位置にあったからであろう。
 ワニ臣とオホ臣が共に仲臣[なかつおみ]であるのも、大和でもっとも重要な場所に居住していたことと無関係ではない。物部氏と尾張氏が「連」なのに、ワニ氏とオホ氏が「臣」なのは、職掌重視の連に対し、臣が場所重視の姓だからであろう。
 また、ワニ(春日)臣の御諸[みもろ]山(聖山)は御蓋(春日)山であり、オホ臣の御諸山は三輪山であるが、いずれの山頂にも日向神社があるのは、両氏族が「仲臣」だからであろう。

p.431
 この両氏の始祖は、オホ氏は初代天皇神武の皇子であり、ワニ氏は5代天皇孝昭の皇子である。このように、いずれも早い時期の皇室系譜に結びついているが、神武紀や景行紀が、まつろわぬ首長を祝・羽振と書くことからみて、本来は、天皇家の始祖の侵入以前から大和にいた祭祀氏族とみられる。
 まつろわぬ者とは、征服者側の「マツリ」に参加しない者のことであり、服属とは、新しい権力者の「マツリ」に参加することである。初代と5代の天皇を始祖とする系譜が生まれたのは、この服属の結果と考えられる。オホ氏の祖が初代天皇の御子となっているのは、征服者が九州から来たことと、オホ氏が九州と強いつながりをもっていたことに関係があろう。また、大和国中と大和北部の位置のちがいも、多氏優位の伝承が定着した一因かもしれない。