以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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高良[こうら]大社――物部氏と水沼君と古代信仰

大祝物部と水沼君
p.370〜371
大祝は「物部」とあるが、この「物部」も中央の物部ではなかろう。中央の物部は「石上」を称し、物部を名乗っていない。
 『旧事本紀』(天孫本紀)は、物部麁鹿火[あらかひ]の弟の阿遅古を水間君の祖と書く。私は、この阿遅古の子孫を当社の大祝の物部氏と推測する。
 宗像大社の項で谷川健一と秋元吉郎の説を紹介したように、阿遅古は、『肥前国風土記』基肄[きい]郡姫社郷の伝承に登場する「筑前国宗像郡人珂是古」と同一人物と目される。姫社郷は肥前といっても当社に近い。なぜ阿是古(阿遅古)は筑後の水沼君ではないのだろうか。
 『旧事本紀』(天皇本紀)は、物部氏系の水間(沼)君以外に、景行天皇の皇子、武国凝別命を筑紫水間君、国背別命を水間君の祖、豊門別命を三島水間君の祖とする。『日本書紀』は、景行天皇4年条に、景行天皇の皇子国乳別皇子を水沼君の祖と書く。
 [略]
 たぶん、武国凝別命を筑紫水間君とする誤りをおかしたため、本来の筑紫水沼君の祖である国背別のところが、水沼君の祖となったのであろう。
 このように、水間(沼)君には景行天皇の皇子系、物部氏系との2流がある。景行天皇の皇子とするのは、景行天皇の九州征討伝承に仮託したためで、この系統の水間(沼)君は、筑後川下流域の三潴・三井郡を本拠とする土着氏族であった。

p.372
 水沼君を、水沼県主とも『日本書紀』は書くが、倭王権に直接間接に従属した豪族のうち、特に重視された豪族の支配地域を「県[あがた]」といい、その首長を「県主[あがたぬし]」という。県と県主の設置は4・5世紀とみる説が有力だが、畿内と地方では設置の時期がずれるので、九州の県主の設置時期は5世紀頃と考えられる。原島礼二は九州の県の成立を、6世紀前半の磐井の反乱の直前と直後に推定しているが、私は雄略朝の水沼君伝承や、水沼君の本拠地の古墳築造の時期からみて、水沼県の設置を5世紀中葉と推測する。
 三潴郡の水沼君は、筑紫君の権力の強大化につれて衰退している。[略]



小祝阿曇氏と風浪神社

p.375
大祝の水沼系物部氏と共に阿(安)曇氏が当社の祭祀にかかわったことは、「乾珠満珠」の伝承からもいえる。『八幡愚童訓』や『宇佐宮縁起』に載る「安曇磯良」は、竜王から「乾珠満珠」を借りて神功皇后の「三韓征伐」に協力している。『太平記』にも同じ話が載る。

p.375〜376
藤大臣と安曇磯良はコンビで乾珠満珠にかかわっており、それが当社の大祝・小祝のコンビに反映しているのである。


『高良玉垂宮神秘書』と水沼君
p.377〜379
 戦国時代の末頃に成った『高良玉垂宮神秘書』は、

  高良大菩薩 タイタウ(大唐) アレナレ河と云所ヨリ、御フ子(舟)ニメシ、チクセンウミノカウチ(筑前宇美河内)ヱ ツキ玉フ、ソレヨリ クハウクウ(皇后)トトモニ、ミヤコヱ ノホリ玉フ、クハウクウ御ホウキョ(崩御)ノノチ、仁徳天皇十七代(年)二、大善寺ノマヱノ川ニツキ玉フ、ハシメテノ御ツキノトコロナレハ、タイタウ(大唐)御フ子(舟)ヲ、イタシ玉、河ノ名ヲ カタトリテ、カノトコロヲハ アレナレ河卜名付タリ、御舟ヲ ステヲキ、カノ河ノハタニアルクロキヲキリ、御舟ヲ ツクリ玉イ、サケミ(酒見)御アカリ ホウロウコンケン(風浪権現)ヲ ハシメ玉イ、九十九社ノサイショヲ サタメ、大菩薩、高良エ御センカウ(遷幸)アリ……

と書き、最初に着いたのは大善寺の前の川とする(カッコの中の表記は引用者)また異伝では、

  九月三日ニ タイセンシ(大善寺)ヱ アカリタマイ、五日コトウリウアリテ ミフ子(舟)ヲアラタメ ミフ子ノカウラヲ ステタマイシヨリ、ミフ子サン(御舟山)トハモウスナリ、七日ノ午ノコクヨリ ミフ子イタシ、サケミ(酒見)ヱアカリタマイ、ナミカセ(波風)ノ神ヲオサメ、天ノ廿八シユク 地ノ三十六 廿五有合テ 九十九ソンヲ オサメタモウ、ノチニハ ホウロウコンケン(風浪権現)トイハイタテマツル……

と書き、酒見に4日逗留し、10日に黒崎へ向かい、3日逗留して、9月13日に高良へ御遷幸したと書く。
 黒崎について、前文の伝承では、別に舟を仕立てて「カウラ山ノコトク御センカウアル也」と書く。
 最初に舟が着いた大善寺は、水沼君が被葬者と推定される御塚(鬼塚)・権現塚古墳のある地であり、この地に玉垂神社がある(久留米市大善寺宮本。『角川地名大辞典・福岡県』は白鳳年間に僧安秦が高良玉垂宮の神宮寺として開基した高法寺が、延暦年間、三池郡司によって大善寺と改められ、それが地名になったと書く)。舟で来たとすれば、順序として海辺の筑後川下流の酒見風浪社から上流の大善寺、そして高良山とすべきなのに、高良山に近いところから遠いところへ行き、高良山へ上っている。このような不合理な記述は、大祝物部、小祝安曇部という序列を意識したものであろう。[略]
 異伝では、高良大菩薩は酒見風浪社から黒崎(大牟田市黒崎)へ赴いているが、黒崎は酒見よりもっと遠く、不自然である。前文では、酒見から高良山以外に、黒崎にも遷幸したとある(黒崎にも玉垂神社がある)。たぶん、大祝・小祝の地を巡って高良山へ遷幸した伝承と、黒崎へ遷幸した伝承が一緒になったのが、この異伝であろう。
 大善寺の古墳は磐井の乱以前の古墳だが、大善寺塚崎の高三瀦廟院には、高良玉垂命の御廟といわれる古墳がある。『筑後国史』によれば、石棺があり、銅鉾2口や1尺3寸7分の銅剣が出たというから、3世紀代の遺跡のようである。高良山の山麓にも、方墳の祇園山古墳がある。この古墳は、やはり三世紀末から四世紀後半頃の遺跡といわれているが(九州における十数基の方墳のうち最古のもの)、大祝家の墓所と伝えられ、旧大祝崖敷に隣接している。古賀寿と山中耕作は、この古墳の被葬者を水沼君と推定しているが、大善寺の高良玉垂宮の御廟といわれる古墳の被葬者も、水沼君であろう。御廟といわれる古墳の方が古いと思われるが、このように、3・4世紀の古墳のある場所が大祝とゆかりの地であることからも、当社の祭祀の始源が推測できる。
 水沼君の祭祀は河辺(海辺)の祭祀、折口信夫のいう「水の女」の祭祀であり、「舟の伝承と干珠満珠の伝承も、そのことを示している。大善寺―酒見という河辺・海辺を経て高良山への遷幸は、「水辺から山へ」の遷幸である。

p.379
 大善寺の前の川を「アレナレ川」と名づけたというが、筑後川に流れこむ広川と、その支流の上津荒木川の合流点に玉垂神社がある。
  神功皇后摂政前紀に、新羅王が「阿利那礼[ありなれ]河」が逆に流れても、太陽が西から出ても、河の石が星になっても、貢は絶やさないと誓ったとある。この「阿利那礼河」について、[略]新羅の慶州を流れる閼川([略])に比定する説などがある[略]この「アリナレ」も「アレナレ」も同じであろう。
 閼川は『三国史記』『三国遺事』によれば、新羅の始祖王赫居世の降臨のための迎神(生誕)儀礼の川であり、赫居世の后閼英が生誕のとき水浴した聖なる川である。「アレ」は「阿礼」で生誕をいうが、「アレナレ河」が新羅の王都を流れる聖なる川であることは無視できない。

p.380
 「アレナレ川」の「アレナレ」には、誕生と水浴(みそぎ)の意があるが、『出雲国風土記』のアヂスキタカヒコネの伝承と記・紀のホムツワケ伝承も、「アレナレ」伝承であろう。『古事記』は、アヂスキタカヒコネを宗像女神のタキリヒメの子とするが、宗像女神を祀っていたのは水沼君である。
 ホムツワケ伝承は、記・紀ともに、白鳥を捕える鳥取伝承になっているが、水沼君にも鳥取・鳥養の伝承があり、共通している。『和名抄』には三潴郡鳥養郷(久留米市大石町付近)があり、そこを白鳥川が流れている。
 このように、『神秘書』の記述からも、高良大社の祭祀氏族は水沼君であったと思われる。


「高良玉垂命」という神名
p.380〜382
 当社の祭神「高良玉垂[こうらたまたれ]命」という神名も、水沼君とかかわる。「高良」には「河原」の意味がある。
 高良山西麓に「高良内」の地名があり、その西に「前河原」、さらに西に「下河原」という地名がある。高良山を河原山とみて、河原の「内」「前」「下」と名づけたのであろう。『宮寺縁事抄』も、「高良大明神」を「川原大明神」と書いている。[略]
 『豊前国風土記』逸文の鹿春[かはる]郷の条に、
  此の郷の中に河あり。(中略)此の河の瀬[せ]清浮[きよ]し。因りて清河原の村と号[なづ]けき。今、鹿春[かはる]の郷と謂ふは訛れるなり。
  昔者、新羅の国の神、自ら度[わた]り到来[きた]りて、此の河原に住みき。便即[すなは]ち、名づけて鹿春の神と日[い]ふ。
とあり、「カハル」も河原の意だとある(地元では「カハル」でなく「カハラ」という)。鹿春社(今の香春神社)と高良社は、後述するように、同じ祭神を祀っている。
 この場合の「河原」は聖地の意である。記・紀の天岩戸神話では、神々は「天安河原」(『古事記』)、「天安河辺」(『日木書紀・本文』)に集[つど]ったとある。
 [略]『日本国語大辞典・4』によれば」、高良大社「のある久留米地方の方言では、「河原」は「コウラ」である。だから当社は「高良」と書かれたのであろう(「日本書紀」景行紀は「高羅山」と書く)。
 「コウラ」が河原(辺)の意であることは、「玉垂」という神名にもかかわっている。「タマ」は「魂」であり、乾珠満珠の「珠」は神の霊力・魂によって潮の干満を自由に操る呪具である。[略]
『宇佐八幡宮託宣集』に、
  [略]
とある。すなわち、「乾珠満珠を垂令[たらし]め」られた公子だから「玉垂」だという。玉垂したのは大帯姫であり、高良玉垂との関係は母子である。降神を垂下というように、「垂」は霊力がつくことであろう。「帯」という字には「おび」(名詞)、「おびる」(動詞)の意味があるが、「おびる」は「ひもで身につける、転じて物を身につける」意であり、霊力を身につける意に通じる。
 『古事記」は、「日足[ひた]し奉[たてまつ]る」ことは「みずのをひも」を解くことだと書き、「みずのをひも」を解くのは丹波の美知宇斯[みちうし]王(道主貴)の娘たちだと書く。折口信夫は、「みず」を「水」と解し、道主貴の娘たちを「水の女」とし、水沼氏も「水の女」にかかわるとみる。『日本書紀』は、水沼君は道主貴の宗像女神を祀ると書くが、水沼君が「日足し奉る」のが玉垂命(大足彦・天足彦といってもいい)であることは、『古事記』(垂仁紀)の「日足」の記述からも推測できる。宗像の女神は「日足」(養育)の水の女であり、『託宣集』の「大帯姫」も同じであろう。
 本来の水沼君の祭事は、「アレナレ河」の河原(辺)での水の女の祭事で、それが高良山の祭事になったことは、『神秘書』の記述からも推測できる。「アレナレ」も、水辺で生まれた神子を日足す意である。
 このように、「玉垂命」の「タラシ」の意味からも、「コウラ」は「河原」と解される。
 

母子神信仰と水の女

p.382
 『古事記』には、オキカガタラシヒメとホムタワケの母子は難波津へ「空船[むなふね]」で着いたとあり、この「空船」を「ウツボ船」とみる説があるが、「タイタウ(大唐) アレナレ河」(「大唐」は唐でなく外国の意)から出発して筑後川畔の大善寺に着いた船も、ウツボ船であろう。海の彼方からのウツボ船漂着譚が、この伝承にも反映しているのである。

p.384〜386
 さらに『神秘書』は、香春の一・二・三の峯と高良の関係について、
  豊前国ヱ、一峯、二峯トテアリ、異国ヨリ異類セメ来ラハ、彼三ノ峯ヱ、高良三所大菩 薩御ヤウカウ(迎幸)アツテ、異類タイチ(退治)有ヘキヨシ御チカイ有リ。又、彼三ノ 峯ヱ異国征伐ノ時、高良御登アツテ、異国異類ノテイヲ、御覧スルニヨリ、高良峯トハ名 付タリ。彦権現(異国の――引用者注)ハカリコトニテ、高良峯ヲ、アラ(洗)イクツ(崩)スヘキトテ、ナラヒノ山ヨリ樋ヲカケ、アラハセ玉フトコロニ、高良大菩薩トウ(通)リキテシロシメシ、彼水ヲ、ケノ(除)ケ玉フ間、彦領三百余丁、白河原ニ彼水  ヲ、モツテアライクツス、今ニウセス。此イハレニヨリ、彦権現、樋ヲカケ玉フ山ヲ樋峯トハ名付タリ
    仲哀天皇崩御 薫香垂迹トヽマルニヨリ、香春岳トモ申スナリ
とある。
 この伝承では、高良神は特に高良峯(香春岳)の三の峯とかかわっているが、前述のように、三の峯の麓には豊比咩が祀られ、その近くに採飼所がある。高良山の高良内の谷間の奥にも、銅や金の出る高良鉱山があり、江戸時代まで稼動していた。このような関係からみても、香春岳と高良山の関係は無視できない。香春には製銅にかかわる秦氏系工人がいたが、高良大社の縁起異本の祠官の条には「秦遠範」とある。高良山をかこむ神護石なども、もし朝鮮式の山城だとすれば、それを築いた渡来系工人をも考慮する必要がある。
 『神社覈録』(鈴鹿連胤、明治25年刊)は、当社と香春のヒメ神が豊比咩であるところから、高良大社と香春神社のヒコ神は同じとみて、香春の祭神忍骨命と高良の祭神玉垂命を「蕃神(渡来神)」ではないかと推測しているが、『特選神名牒』(教部省撰、明治9年完成、大正14年刊)も同神説である。
 鎌倉時代末期に書かれた『釈日本紀』は、香春社の辛国息長大姫をヒメコソ神と推論するが、ヒメコソ伝承には水沼君の祖珂是古(阿遅古)がかかわっている。
 ヒメコソ神(アカルヒメ)は、新羅のアグ沼のほとりで昼寝をしていた女の陰部に、日光が射して生まれた女神であるが、この「アグ沼」について三品彰英は、「『御子沼』と直訳することができ、また『乳母沼』と訳すこともできるので、民俗学的にわが『みぬま』『みぬめ』の観念と比較し得る」と書いている。「アグ沼」は水沼であり、「アレナレ川」でもある。高良大社の大祝(水沼君)は玉垂命の乳母の末裔だというが、乳母とは水の女(記・紀のタマヨリヒメ)であり、高良玉垂命は、「天照御祖」が生み育てる幼童神である
 高良大菩薩(高良玉垂命)は、異国の「アレナレ河」で生まれ、舟で巡幸し、筑後の「アレナレ河」に漂着したという。筑後の「アレナレ河」は水沼の地であり、水沼は「アグ沼」である。アグ沼のほとりとは沼辺、河辺、河原のことで、神の誕生の聖地である。高良大菩薩はこの聖地(河原)で新しい舟を作り、酒井・黒崎へと遷幸している。この伝承の根底には、日光感精神話とウツロ舟伝説(この両者は一体になっていることが多い)があり、宇佐八幡宮と香春神社を祀った秦氏系氏族の影がある。
 アグ沼のほとりの女は日女であり、伊勢天照御祖神社の祭神も日女である」が、「この神社の原社地の状況からみて、高良大社の玉垂命には日の御子的要素がある(「伊勢天照御祖神社」の項参照)。
 高良大社は、中世には「高良八幡大菩薩」と呼ばれるようになり、八幡信仰の神社となった(現在は豊比咩神でなく八幡神を住吉神と共に合祀している)。しかし、これは八幡信仰が中世になって侵透し、その結果当社が八幡神の伴神になったということだけを意味しない。これまで述べたように、高良神そのものに八幡神と同じ性格があったためであり、高良神と八幡神を結ぶのが、香春の豊比咩命なのである。


高良と河童

p.387
 河童(磯良)が高良玉垂命になったとする説は、両神が乾満宝珠にかかわり、水沼氏と安曇氏が大祝・小祝であることからもうなずけよう。
 当社と同じ久留米市にある水天宮[すいてんぐう]では、5月5日から7日に「川渡り」という河童祭がある(丸山学は「水天宮は九州河童の総本山」と書くが、宍戸儀一は「水天宮」は水天狗〔河童のこと〕の意味とする)。

p.388
 水天宮は大善寺の玉垂社や酒見の風浪社などのある筑後川下流域の福岡県と佐賀県の県境では、河童の呼称に、他地方にない「コウラワラワ」がある。河童童子の意だが、この呼称からも、高良は河原の意であることがわかる。

p.389
 河童は水神だが(正確には、水神の荒魂といっていいだろう)春の初めに山から降りて、秋の終りに山へ入り、山童[やまわろ]になるといわれている。高良神は、大善寺のアレナレ河のほとり(河原)でカウラ(舟)を捨て、旧暦9月13日に高良山へ入ったという。これは、山童になったということではあるまいか。この伝承と川渡祭は、「カウラ」の神の二面性を示していると推測できる。