以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

ーーーーーーーーーー

磐船[いわふね]神社――ニギハヤヒの降臨伝承と「天磐船」

ニギハヤヒ降臨の哮峯

p.357
 社名の「磐船」は、祭神饒速日[にぎはやひ]尊にかかわる磐船伝承に由来する。『旧事本紀』の「天神本紀」「天孫本紀」に、
  饒速日尊、天神御祖の詔をうけて、天磐船[あまのいはふね]に乗り、河内国河上哮峯[いかるがみね]に天降り坐[ま]す。さらに、大倭国鳥見白庭山[やまとのくにとみのしらにはやま]に遷り坐す。いはゆる天磐船に乗り、大虚空[おおぞら]を翔行[かけりゆ]きて、この郷[さと]を巡りみて、天降り坐[ま]す。すなはち、「虚空見日本国[そらみつやまとのくに]」といふは是なり。
とあり、『日本書紀』の神武天皇31年4月条にも、
  饒速日命、天磐船に乗り、大虚空を翔行きて、この郷をみて、降[あまくだ]りたまふに至る。故[これ]に因りて、なづけて「虚空見日本国」といふ。
とある。この伝承は『古事記』には載っていない。
 河内国河上哮峯については2説ある。1説は、この磐船神社の「磐船」の下を流れる天の川(今は天野川と書く)の上流。1説は南河内郡河南町平石にある磐船神社の近くの山である。

p.359
交野[かたの]市の磐船神社は、かつての交野郡に属すが、交野の地は交野物部氏の本貫地であり、摂津・河内から大和へ入る要地である。『旧事本紀』の「天神本紀」に、天物部二十五部の人々が天孫天降りのときに供奉したとあるが、そのなかに「肩野物部」がみえる。肩野は交野である。「天孫本紀」は、饒速日尊の6世孫伊香色雄[いかがしこお]命の子に多弁宿禰[たべのすくね]をあげ、多弁宿禰は交野連らの祖と記す。また13世孫物部目連公[めのむらじのきみ]の物部臣竹連公を、肩野連らの祖とも記す。『新撰姓氏録』の左京神別上にも、物部肩野連は伊香我色乎命の後とあり、「右京神別上」にも、肩野連は饒速日命6世伊香我色雄命の後とある。
 このように物部氏にかかわる土地なのだから、2つの磐船説のうちでは、交(肩)野の磐船のほうに信憑性がある。



ニギハヤヒと神武東征伝承

p.361
 ニギハヤヒが天降りに船長[ふなおさ]・楫取[かじとり]らを従えているのも、「アマクダリ」が「海[あま]から来る」ことだったからであろう。



「天磐船」について
p.362〜363
『住吉大社神代紀』の「胆駒神南備山本記」には、
  大八洲[おおやしま]国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖、大田田神[おおたたのかみ]なり。此の神の造作[つく]れる船二艘、一艘は木作、一艘は石作を以て、後代の験[しるし]の為に、胆駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝墓に木船を納め置く。
とある。
 [略]木の船なら実際の船で、問題はない。沈むことがわかっている「石(磐)船」は、
 1、ニギハヤヒのみにかかわる伝承である。
 2、海[あま]でなく天[あま]をとぶ船である。
 3、この船に乗っている神だけが、「日本国」(必ず「日本」と表記する)といって天降りしている。
 4、日神に奉仕する船木氏の遠祖がこの船を作っている。
 5、墓に納めている。
ことからみて、独自の意義があったと考えられる。
 独自の意義の第1は物部氏、第2は太陽信仰、第3は死と再生にかかわるようである。

p.363〜364
 ニギハヤヒと天磐船の関連伝承は、『旧事本紀』『住吉大社神代紀』では、生駒山にかかわる伝承であり、『日本書紀』では「東の美[よ]き地」「そらみつ日本国[やまとのくに]」に天降りした伝承である。『日本書紀』では神武天皇の東征伝承との関係でのみ登場することからみて、これは先住主権者としてのニギハヤヒの伝承(とくにナガスネヒコ)を無視できずに記載したものと考えられるが、『旧事本紀』では、物部氏の祖先伝承として記されているため、生駒山(哮峯)への物部氏の祖神降臨神話となっている。この降臨神話の影響が、『住吉大社神代紀』の「胆駒神南備山本記」なのである。

p.364
『万葉集』が「倭[やまと]島」と歌う生駒山系と、その両側に広がる平地が、「虚空見日本国[そらみつやまとのくに]」なのである。生駒山から昇る太陽は、生駒山の東、大和の国中[くんなか]で生まれて、朝になると現れるようにみえるから、その地(大和国)を日本[やまと]とみたとも考えられる。

p.365
磐船神社と岩戸神社(天照大神高座神社)は、難波宮趾を基点とすれば、それぞれ夏至と冬至の日の出方向にある。また、磐船神社と岩戸神社のほぼ中間に生駒山頂があり、その西側中腹に石切神社の上社がある。つまり、この3つの神社の所在地は、難波宮跡[ママ]から見て、ほぼ夏至(磐船神社)・春分・秋分(石切神社上社)・冬至(岩戸神社)の日の出の方位にある。

p.365
 墓に納めた磐船から船形石棺が想像できるが、伊勢神宮の神体(鏡)を納める容器も、船形(御船代)である。日神または日神の子をのせる船は、貴種をのせて漂着する空船[うつぼふね]伝承(貴種流離譚の一種)と重なるが、ホムタワケ(応神天皇)をのせて難波に着いた船を、『古事記』は「空船[むなふね]」と書く。この「空船」を「ウツボ船」のこととする説があるが、『古事記』は「空船」を「喪船」とも書く。磐船を墓に納めたと同じ、死と再生の観念が、これらの伝承にもこめられているのである。